2010年8月23日月曜日
『フェルディドゥルケ』
2010,08,23 (Mon)
『フェルディドゥルケ』
W. ゴンブローヴィッチ 米川和夫訳 平凡社
もう1年程前に初めて読んだ本なのですが、
あぁ、感想が書けない、まだしっかり理解で来ていない。
と思い、繰り返し読んでいました。
やっとメモを取る程の感想が出てきたので、記します。
主人公は、30歳にして、17歳と偽り、学校の6年級に入学させられる。
未熟さを賞賛する主人公に下された、大人達による、再教育である。
10代の少年達と学校で過ごし、下宿先の家庭では、現代的な女学生と一緒に暮らす。
大人の望む若さを受け入れる学生、
大人の望む若さに真っ向から反発する学生、
大人達の考えには目もくれない学生。
そんな、若さに囲まれ、主人公は悩み、苦しむ。
初めはためらいがちだったが、しかし、一度、口火がきられると、あとはもう急調子で生徒一同、酔いどれの荷馬車引きでも恥じらうにちがいない、きたないうえにもきたない言葉のありったけを争って口にし始めたのだ。そしてお互いに猥雑な悪口雑言や下劣な言葉を熱っぽく人の目を盗むようにしてすばやく取りかわしたばかりか、何人かの者は、塀に白墨でもって、わざわざそうした言葉を幾何学的な図形に書き直して見せたりした。(中略)俺はみんなをとめようとした。
(中略)「なぜそんな下劣な言葉を?!」
「黙ってろ、洟ったれ!」思いきり下品なその悪童は俺にひと突きくらわしながら、こう答えた。(中略)「これはな、愛らしい臀部だなんて子供扱いされねえための、おれたちに残されている唯一の手段なんだ!見てみろ、視学のやつ、柏のかげから狙ってるぞーーーおれたちの一人前のけつをしょんべんくさいおちりにしちまおうと思ってな。分からねえのか?」
(p.49, l.9-p.50, l.6)
「足。」現代性にたいする俺の関心をかきたてようとするのだ。「足にきまっている。わしはおまえたちを知っているのだよ、おまえたちのスポーツ、新しいアメリカナイズされた世代の風俗習慣の事を。手よりも足のほうがいいのさ、おまえたちには足がなによりも大事なのさ。ふくらはぎ!精神文化なぞおまえたちにはなにものでもない。ただ足だ。スポーツ!ふくらはぎ、ふくらはぎ!」むやみやたらとおれの若さにこびようとする。「ふくらはぎ、ふくらはぎ、ふくらはぎ!」
(p.193, l.4-l.9)
成熟などというものを彼女を彼女は侮蔑していた。いや、彼女にとっては、未成熟が成熟にほかならなかった。顎ひげた、口ひげなど認められない、乳母にしろ母親にしろ子供をだいた女など認められないというわけでーーー彼女の魔術的な力の源泉がここにあった。彼女の青春はいかなる理想をも必要とはしないのだ。なぜなら、それ自身がすでに理想だったからだ。おれがーーー理想の青春によって悩まされ苦しめられているおれが、こうした理想の青春を燃えるように渇望したとしてもふしぎはなかろう。しかし、彼女はおれを求めなかった!おれの顔をつらにした!しかも、日ごと日ごとに、ますますもってすさまじくなる一方のたいそうなつらをおれにあつらえてくれたのだ。
(p.238, l.18-p.239, l.7)
この作品には、身体の一部が多く、象徴的に用いられている。
それは、男性器や女性器ではなく、尻、おちり、顔、つら、ふくらはぎ、足など。
本人も著作の中でこう語る。
肉体の基本的部分、飼い慣らされた従順なお尻が本書においては構成の基本となっていて、ほかでもない、つまり、このお尻から物語は始まるのだ。お尻というのは、木でいえば、畢竟、根もとのようなものであって、そこから個々の部分がさらにこまやかな根や枝の分かれとなって分かれてゆく。たとえば、足の指、手、目、歯、耳といった具合だが、そのさい、ある部分部分は、繊細にして精巧微妙な形態の推移のせいで、目にめとまらぬほど玄妙不可思議な変わりようを示す。そして、人間の顔ーーーある方言ではむちという人間の顔は、尻の根もとからもろもろの部分となって育っていった木のいただきを飾る葉の茂みだ。つまり、むちは尻によって始められた連関過程をとじる部分なのだ。そこで、今こうしてむちにまでどうやらたどり着いた以上、ふたたび尻にまで戻るためには、その間にある個々の部分の部品をまた逆にたどって行くほかない。
(p.126, l.17-p.127, l.7)
この作品の男と女の扱いは、『ポルノグラフィア』に比べて、驚く程、軽い。
男女と言う組み合わせは、まるでこの世の、主人公とは別の世の、理のように描かれている。
求めるのは、男同士の兄弟付き合い。
まるで、男女の付き合いから逃れるように、兄弟付き合いを求め、それは結局、失敗する。
この本は一冊まるまる、主人公の悩みと混乱で埋め尽くされている。
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