じゃあ、今とは違う、新しい教育ってどんなものなのか。
そう思って勉強を始めて4ヶ月ぐらいが過ぎた。
おかげで、今、私は、
わりと最先端の教育を受けてきたのだ、と改めて認識している。
そしてその経験から、かなり強い危機感を持っている。
そのことをちょっとメモしておこう。
1、「専門は別分野だけど、教育に興味がある」おとなが参入してくる
2、教えるのが難しいけど一番重要な「多様性の受容」がたぶん遅れる
1、「専門は別分野だけど、教育に興味がある」おとなが参入してくる
21世紀型スキル、探究型学習、アクティブ・ラーニングなどで
新しい教育のあるべき姿として主張されているものは、
知識を得ることではなく、知識を得る方法を習得することだ。
学校を卒業しても、大人になっても勉強する習慣、というやつではないだろうか。
今まで、日本では家庭環境に任せっきりになっていたものだと思う。
そういう面では、私は恵まれた環境で育ったと思う。
家には百科事典があり、いつでも自由に手に取れる場所にあった。
小学生のときから、電子工作や、家具の設計や組み立て、
キャンプではテントの張り方や火のおこし方を教えてくれた。
太陽の直径のはかり方や、恐竜が絶滅した原因についての複数の仮説、
星座に現れるさまざまな神話、和算など、
学校の科目に捕らわれない学習を毎日のようにしていた。
クラシック音楽やオペラ、西洋絵画や映画を鑑賞するときの、
宗教の基礎知識も、もちろん、親が講義してくれた。
こんな環境で育てば、知らないことなんて怖くない。
新しい価値を学ぶことはいつも楽しい。
おかげで、私も兄も新しいものを学ぶことに全く抵抗がない。
こんな環境を、学校に作ろうということだ。
楽しいに決まってる。
クラスは一気に活気が満ち、
子どもたちの夢中な姿を見て、教師も満足するだろう。
しかし日本の公教育はなかなか変わらない。
その代わりに、教育系ベンチャーやNPOが盛り上がっている。
大学生や社会人が、プロボノみたいな名目でたくさん参加している。
でも彼らは、教師では無い。
教育学の知識がほとんどないこともある。
教育をドライに考えられない。教育を客観視できない。
自分の成功体験と情熱だけに支えられたそれは、結局、おとなの自己満足だ。
2、教えるのが難しいけど一番重要な「多様性の受容」がたぶん遅れる
中途半端に良い教育を受けた人たちには、ときどき、問題がある。
選民意識と、コミュニケーション不全。
理由はだいたいわかる。
こんな恵まれた環境にいる人は少ない。
教育熱心な親たちに、時間やお金を、たくさんかけてもらっている。
外からは「ちょっと変わった子」に見える。
自分を笑うおとなたちより、多くのことを知っているのに。
自分が恵まれた環境で育ったことに、無自覚なこともある。
どれだけ自分が安全な環境にいるのかわからない。
社会的弱者に、本人の努力が足りないから生きづらいのだと、平気で発言する。
自分と似た人に対しては同族意識を持ち、忠誠心も強くなる。
自民族中心主義に陥るのだ。
私が、それに苦しんできた。
それを打破できるのは、圧倒的な他者だ。
他者との共同作業、哲学や文学を通じて、自己を客観視する訓練が必要だ。
これを教えなければならない。
これは、決して、自分の経験だけでは教えられないものだ。
教育者としての認知的な知識が必要だ。
これを教えなければ。
ペットボトルロケット飛ばして笑っている場合じゃない。