2021年8月29日日曜日

李琴峰作品の潔癖さについて考えたことメモ

この文章を書いているのは、
日本国籍を持ち、日本語を第一言語として育ち、
上京して正社員として働いている、修士号を持つ健常者である、
ということを念頭にお読み下さい。

李琴峰作品には、ザラリと残る後味がある。
ポリティカル・コレクトネス的正しさとか、正義感が強いとか、
説教くさいとか、綺麗事だとか言うこともできると思う。
これについて、うまく説明できないでいた。
李琴峰ファンとして、彼女の言葉を聞いたり読んだりして、
いま、やっと説明できそうなので、ここにメモしておく。

1、差別に理由はない
2、マジョリティの特権は認識しにくい
3、差別の中から生き残れるのは、ラッキーな人たち





1、差別に理由はない

「人権は大事だ」とよく言われているということは、つまり、
私が生きている社会は、人権が大事にされていない社会である、と思う。

日々の生活の中には「あ、私今、相手から大事にされてない」とか、
「勝手にカテゴライズされて笑われてる」とか「理不尽な目にあっている」と思うことが多い。
タクシーの運転手に、答えたくないプライベートな質問をされた時や、
自分の意見が全く反映されていない議事録を読んだ時や、
ニュースアプリに登録したら女性だというだけでアパレルのプレスリリースばっかり届いた時や、
保険屋や不動産屋が、自分の希望を全く無視した商品を紹介してきた時や、
趣味を他人に笑われた時や、
甘いものが嫌いなことを「意外だ」と言われた時や、
血液型占いなんかを引き合いにして「O型っぽい」とか言われた時などが、そうだ。

李琴峰作品の登場人物は、賢く正しい。そして差別されている。
この2つは両立する、ということをしっかり理解する必要がある。
差別してもいいとカテゴライズされてしまった人たちは、
ただ生きているだけで、犯罪者とされたり堕落者とされてしまう。
差別する理由などないし、あってはいけない。
このことを書き止めているのが李琴峰作品だと思う。


2、マジョリティの特権は認識しにくい

自分がマジョリティに所属していることは、非常に認識しづらい。
これについては、上智大学の出口真紀子教授の記事が素晴らしいので、下記をご確認ください。
https://www.jinken-net.com/close-up/20200701_1908.html

そして、差別しているマジョリティを認識するのも、同様に難しい。
以下に自分の体験を記しておく。

私が学生の時から、東京出身者による、
千葉や埼玉、北関東や、東北出身者への侮蔑を目にしていた。

私は長く、千葉・埼玉・北関東・東北出身者の特徴だと思っていた。
「何で茨城の人たちはこんなに、卑屈なんだろう…?」
「埼玉の人たちがいうダサイタマって何? 私そんなこと言ったことないのに…」
「なんで自分の出身地をそんなに卑下するんだろう?」などと疑問に思っていた。

東日本大震災のときも、そう思っていた。
震災から1年後、福島県出身の友人2人が、
最近2人だけで頻繁に会っているらしいと、耳にした。
「福島出身者だけで話したいことがある」という理由だった。
その時私は、身勝手にも、仲間外れにされて嫌だなと思った。

ほとんど東京に出荷するために農作物を作り、電力を作ってきたのに、
原発事故が起こると、「汚染されているから要らない」と拒否される。
この問題も、私はどうしても差別と結びつけることができなかった。
多くのメディアや識者は、きちんと理解し発信していたと思う。
だけど私はよくわからなかった。
なぜなら私は、
卑屈で劣等感が強く差別され続けている人々をたくさん見てきたけれど、
差別している東京の人を認識していなかったからだ。

李琴峰作品に強い正しさを感じるということは、
自分の、無知でいられるマジョリティ特権を指摘されて不愉快だからだと、考えられる。


3、差別の中から生き残れるのは、ラッキーな人たち

差別する理由がないのと同様に、
差別されている人が生き延びるのにも、理由はないと思う。

理不尽な目にあったり、侮辱を受けた時に、
自分を癒し、また明日も生きようと思うためには知識が必要だ。
きちんとした知識を得るためには、
それなりの収入と、健康な精神と、文化的な経験も必要だと思う。
それよりも大事なことは、運が良いことだと思う。

運良く素敵な友人に出会えたことや、
幸運なことに自分の居場所があると感じることができたり、
幸いにして良い大人に出会えていたりすることなどである。

李琴峰作品は、差別から生き残ることができそうな人々を描いていると思う。
だから、運が良いのだ。
運が悪い人は、差別を受けたら生き残れない。