幼稚なコミュニケーションを見聞きするのがつらい。
つらすぎて、思いっきり嫌な顔をしていると思う。
例えば、スポーツジムで、
利用者が「え〜、あつ〜い」と言うと
インストラクターが
「ごめんごめん、さっきまで一人でいたからさ」とか言いながら
暖房のスイッチを切る。
久しぶりに会った人に、
天気の話みたいに
「聴きました?さっき近所でひき逃げ事件があったみたいです。
怖いですよね。犯人きっとガイジンですよ」とか言われるので
「日本人でもガイジンでも、どっちでも怖いですね」と冷静を装って応える。
行動中心主義にのっとれば、
言語を使って実際になにができるかが重要視されるので、
例えば、スポーツジムで、暑いので暖房を切ってほしいときに
「え〜、あつ〜い」と言うことで
インストラクターが自主的に暖房を切ってくれたのであれば、
それは言語運用として正しいことになるのだろうか。
今現在の日本社会において、日本人同士の世間話で、
外国人差別や排外主義的な話題を話すことは、
お互いの共通の関心事で、共感を得やすく、
さらに個々の実体験などの話題に切り替えやすいので、
初対面の会話の糸口として適切なのだろうか。
「肌がきれいだね」「細いね」は、
相手が真剣に努力して取り組んでいることであるならば、
限られた場面において、適切な褒め言葉となるなのだろうか。
そんなわけないよね〜!と思って、座右のプリントアウトである『外国語の学習、教授、評価のためのヨーロッパ共通参照枠』を久しぶりに開いてみたら、大橋理枝先生の「日本語版重版に当たって」(2008年)にこんなことが書いてあった。
最近の風潮としてこのCEFRに書かれている例示的能力記述文にのみ関心が向いてしまうことに対しては、大きな危惧を覚えざるを得ない。確かに利用するには便利な道具ではあるかもしれないが、根本的に何のために作られた道具なのかを常に念頭に置いて使うべきだと思う。釘を打つための道具として作られた金槌を他の用途に使うことは物理的にも可能であろうが、もともとは木工作の釘を打つために作られた道具であったことを忘れないでいたいものである。
CEFRが何のために作られたのかというと、それは、複言語主義・複文化主義のためである。
CEFRを作った団体の母体である欧州評議会が「ヨーロッパにおける多様な言語と文化の豊かさは価値ある共通資源であり、保護され、発展させるべきものである。」としている。これが政治的目的なのだ。
東京外国語大学の投野由紀夫先生が作ったCEFR-Jも、国際交流基金が作った「JFスタンダード」も、文科省が作った「日本語教育の参照枠」も、NHKが設計した「英語グランドデザイン」も、この複言語主義・複文化主義を達成するためのCEFRを元にしている。
つまり、日本語も、世界中にたくさんある(学習可能な)言語の一つであり、それを使って世界の多様性を発展させてゆくべき。
「こういう言語運用で、日本社会が回ってるんだからいいじゃないか」ではなく、複言語主義・複文化主義の実現に向けてどのように日本語を運用していけば良いのか、を考えたい。
そういえば、似たようなお話を生物学の先生と話していた。
「雑学止まりの本が多い」
「風変わりな生態や名前を暗記するだけで満足してしまうなんて残念だ」
「大事なのは、その知識をもってどのような社会を作り上げてゆくか、なのに。」
座右のプリントアウトがあってよかった。