2009年7月16日木曜日
『陰陽師』
好きな作家は?と聞かれれば、夢枕獏と答えるし、
好きな音楽家は?と聞かれれば、源博雅と答える。
その程度には、『陰陽師』が好き。
一生に一度で良いから、源博雅の竜笛を聞きたい。
いや、逆か。死んだら聴けるのだろうか。
時々、源博雅の才能が主役の話がぽつぽつとあるのですが、それが大好き。
さぞかし美しい演奏なんだろうなと、妄想が止まらないのです。
もちろん、妖怪も好き。
安倍晴明の仕事っぷりもかっこいい。
そして仲良く、お酒を飲んでいる安倍晴明と源博雅も好き。
大きな課題も終わり、忙しい年末年始の前に、と思い買った本。
夢枕獏『陰陽師 夜光杯ノ巻』文春文庫 2009
はじめから、源博雅の音楽に惹かれた琴の精の話。
うれしい。うれしい。これはよい短編集。
しかし、何か、してやられた、という感じがするのだが。
「死ぬのか、おれたちは」
「ああ、死ぬ」
「おまえもか、おまえも死ぬのか、晴明---」
「死ぬ」
「おれも?」
「死ぬ」
「それは、いつなのだ」
「知りたいか、博雅---」
(中略)
「なあ、清明よ」
「なんだ、博雅」
「いつ、おれが、どのような死に方をするとしてもだ……」
「どうした」
「こうしておまえとこの世で出会うて、こうしてともに酒を飲んだ夜があったことを思えば---」
「思えば?」
「生きていたことの意味があったということさ。つまり……」
「つまり?」
「いずれ死ぬにしろ、それはそれで運命ということであろうよなあ」
「うむ」
「それでよい」
「うむ」
「この世に、おまえがいてよかったと、おれはしみじみと今、そう思っているのだよ、清明---」
「馬鹿……」
「馬鹿?」
「何故だ」
「おれの心にも準備というものがあるからだ---」
「ふうん」
博雅は、笑みを浮かべて清明を見た。
「どうした博雅」
「おまえにも、存外に可愛いところがあるのだな」
「おれをからかうな、博雅」
「からかってなどおらぬ」
「それよりも、笛を吹いてくれぬか。おまえの笛が聴きたくなった」
「うむ」
(「食客下郎」p.264, l.8-p.266, l.15)
カロリー高すぎたかな。
『欲望する脳』
先月書いた、ちくまの本を読んで
今まで食わず嫌いしていた茂木健一郎の文章を読み再考。
新書を図書館で借りる。
茂木健一郎 『欲望する脳』 集英社(集英社新書) 2007
先入観はいかんなと思う。
でもメディアに露出する人が、
そんなことを心配していないと思うので全然大丈夫だと信じます。
はたして脳科学者と言う肩書きは、この本に必要なのでしょうか。
「多重文脈者」という言葉は誰が作ったのか分からないのですが、
近年の、妙な「自分らしさ」「本当の自分」「アイデンティティー」ブームを考えるにはよい用語だと思う。
今はもう廃れているのでしょうか。
個人主義は無関心とは違う、と言う言葉を、私はまだ理解出来ていないのです。
全ての会話や行為が、ネタや、笑いを取る為のじゃれ合いとなってしまう今、
2チャンネルやサイバー空間を真剣に語る事が避けられてるし、
バーチャルはバーチャルと、切り捨ててはいけないという思想も不十分だと思う。
インターネットで得られる情報は安易に信用してはいけないと、当然のように語られる横で、インターネット上の書き込みで脅迫罪と認定されている。
哲学は科学より先行しなければならないという主張は切実です。
資本主義社会での矩は、「己の欲望を満たすこと」。
哲学の介入の余地が、まだ、あるでしょうか。
2009年7月12日日曜日
『ほかに誰がいる』
なにか良いことが起こるような気がした木曜日。
志村貴子の『どうにかなる日々』を買おうと大学近くの書店に入るも、
在庫がなく、しょんぼり。うーん、と本棚の間をうろうろしながら目についた本を手に取る。
『ほかに誰がいる』 朝倉かすみ 幻冬舎(幻冬舎文庫) 2008
木曜日の夜と、金曜日の朝に読んでしまった。
ゆっくり読んだら、もう、主人公がいなくなってしまいそうなぐらいの疾走感。
主人公の物語がはじまる。
そして終わる。
そんな感じの恋のお話。
えりは一目惚れの相手を、心の中で「天鵞絨(びろうど)」と呼ぶ。
髪型も、眉の形も、肌の色も、天鵞絨と同じにして、
愛しいあのひとと同化したい、あのひとに吸収され、あのひとを吸収したいと願う。
あのひとの名前をノートに書く。
あのひとが触れたものを大事に取っておく。
16歳の恋は素敵。
「苦しければ苦しいほど、私の心は磨かれるのだと思った。
私はそれだけ天鵞絨に奉仕し、天鵞絨のことだけを考えているのだから、それをわかってもらいたかった。わかってもらえなくてもいいのではないかな、とも思った。しかし、それは間違った考えだと私はすぐに反省する。天鵞絨は、天鵞絨のままでいい。」(p.26-27)
「好きということばは、天鵞絨のためだけのものだ。
天鵞絨以外のひとに対して、好きということばを、たとえ使わなくても、そう思っただけで、わたしはわたしを罰しなければならないのだった。
子猫が空き地で昼寝をしていて、ミルクをのんだばかりとおぼしきお腹がふっくりふくらんでいたとしても、『かわいい』などと思ってはならない。わたしは心を動かしてはならない。天鵞絨以外の対象に愛情を注いではならないからだ。
天鵞絨への忠誠は、いつか完全にひとつに重なるわたしたちの、『わたしたち』という人格を形成するのに欠かせないものだと思っている。
『わたしたち』という人格を築いていくために必要なのは、おもに私の努力なのだ。
わたしは信じていた。
わたしの努力や、少しばかりの犠牲を天鵞絨に気取られてはならない。気づかれなければ、うまくいく、と。」(p.34-35)
えりは天鵞絨に近づくために、精一杯のことをした。
天鵞絨と関係あるもの全てと、結びつきたいと思った。
そうして天鵞絨と繋がる。
これは正しいと思う。
天鵞絨本人よりも、天鵞絨の好きなもの、天鵞絨の家族が大事。
突っ走る恋、突っ走る盲目。
若いな、素敵だな。
でも、憧れない。
いいな、いいな。
でも、したいとは思わない。
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