2009年12月28日月曜日
『芋虫』
買ってしまった。
『芋虫』
原作:江戸川乱歩 漫画:丸尾末広 エンターブレイン(ビームコミックス) 2009
『パノラマ島奇譚』と同様に原作は読んでないのですが。
どうやらこれは禁忌らしいのです。変態だそうです。
なぜ?どこが?
夫婦でセックスして、夫が妻に欲情して、妻が夫に欲情することが?
純粋で、汗臭くて、必死で、
生きた人間と生きた人間のかかわり合いで、とても、良い夫婦だと思う。
泣きそうになった。
愛のある夫婦なんだと思った。
強烈すぎてうまく感想が書けないが、私はそう読んだ。
2009年7月16日木曜日
『陰陽師』
好きな作家は?と聞かれれば、夢枕獏と答えるし、
好きな音楽家は?と聞かれれば、源博雅と答える。
その程度には、『陰陽師』が好き。
一生に一度で良いから、源博雅の竜笛を聞きたい。
いや、逆か。死んだら聴けるのだろうか。
時々、源博雅の才能が主役の話がぽつぽつとあるのですが、それが大好き。
さぞかし美しい演奏なんだろうなと、妄想が止まらないのです。
もちろん、妖怪も好き。
安倍晴明の仕事っぷりもかっこいい。
そして仲良く、お酒を飲んでいる安倍晴明と源博雅も好き。
大きな課題も終わり、忙しい年末年始の前に、と思い買った本。
夢枕獏『陰陽師 夜光杯ノ巻』文春文庫 2009
はじめから、源博雅の音楽に惹かれた琴の精の話。
うれしい。うれしい。これはよい短編集。
しかし、何か、してやられた、という感じがするのだが。
「死ぬのか、おれたちは」
「ああ、死ぬ」
「おまえもか、おまえも死ぬのか、晴明---」
「死ぬ」
「おれも?」
「死ぬ」
「それは、いつなのだ」
「知りたいか、博雅---」
(中略)
「なあ、清明よ」
「なんだ、博雅」
「いつ、おれが、どのような死に方をするとしてもだ……」
「どうした」
「こうしておまえとこの世で出会うて、こうしてともに酒を飲んだ夜があったことを思えば---」
「思えば?」
「生きていたことの意味があったということさ。つまり……」
「つまり?」
「いずれ死ぬにしろ、それはそれで運命ということであろうよなあ」
「うむ」
「それでよい」
「うむ」
「この世に、おまえがいてよかったと、おれはしみじみと今、そう思っているのだよ、清明---」
「馬鹿……」
「馬鹿?」
「何故だ」
「おれの心にも準備というものがあるからだ---」
「ふうん」
博雅は、笑みを浮かべて清明を見た。
「どうした博雅」
「おまえにも、存外に可愛いところがあるのだな」
「おれをからかうな、博雅」
「からかってなどおらぬ」
「それよりも、笛を吹いてくれぬか。おまえの笛が聴きたくなった」
「うむ」
(「食客下郎」p.264, l.8-p.266, l.15)
カロリー高すぎたかな。
『欲望する脳』
先月書いた、ちくまの本を読んで
今まで食わず嫌いしていた茂木健一郎の文章を読み再考。
新書を図書館で借りる。
茂木健一郎 『欲望する脳』 集英社(集英社新書) 2007
先入観はいかんなと思う。
でもメディアに露出する人が、
そんなことを心配していないと思うので全然大丈夫だと信じます。
はたして脳科学者と言う肩書きは、この本に必要なのでしょうか。
「多重文脈者」という言葉は誰が作ったのか分からないのですが、
近年の、妙な「自分らしさ」「本当の自分」「アイデンティティー」ブームを考えるにはよい用語だと思う。
今はもう廃れているのでしょうか。
個人主義は無関心とは違う、と言う言葉を、私はまだ理解出来ていないのです。
全ての会話や行為が、ネタや、笑いを取る為のじゃれ合いとなってしまう今、
2チャンネルやサイバー空間を真剣に語る事が避けられてるし、
バーチャルはバーチャルと、切り捨ててはいけないという思想も不十分だと思う。
インターネットで得られる情報は安易に信用してはいけないと、当然のように語られる横で、インターネット上の書き込みで脅迫罪と認定されている。
哲学は科学より先行しなければならないという主張は切実です。
資本主義社会での矩は、「己の欲望を満たすこと」。
哲学の介入の余地が、まだ、あるでしょうか。
2009年7月12日日曜日
『ほかに誰がいる』
なにか良いことが起こるような気がした木曜日。
志村貴子の『どうにかなる日々』を買おうと大学近くの書店に入るも、
在庫がなく、しょんぼり。うーん、と本棚の間をうろうろしながら目についた本を手に取る。
『ほかに誰がいる』 朝倉かすみ 幻冬舎(幻冬舎文庫) 2008
木曜日の夜と、金曜日の朝に読んでしまった。
ゆっくり読んだら、もう、主人公がいなくなってしまいそうなぐらいの疾走感。
主人公の物語がはじまる。
そして終わる。
そんな感じの恋のお話。
えりは一目惚れの相手を、心の中で「天鵞絨(びろうど)」と呼ぶ。
髪型も、眉の形も、肌の色も、天鵞絨と同じにして、
愛しいあのひとと同化したい、あのひとに吸収され、あのひとを吸収したいと願う。
あのひとの名前をノートに書く。
あのひとが触れたものを大事に取っておく。
16歳の恋は素敵。
「苦しければ苦しいほど、私の心は磨かれるのだと思った。
私はそれだけ天鵞絨に奉仕し、天鵞絨のことだけを考えているのだから、それをわかってもらいたかった。わかってもらえなくてもいいのではないかな、とも思った。しかし、それは間違った考えだと私はすぐに反省する。天鵞絨は、天鵞絨のままでいい。」(p.26-27)
「好きということばは、天鵞絨のためだけのものだ。
天鵞絨以外のひとに対して、好きということばを、たとえ使わなくても、そう思っただけで、わたしはわたしを罰しなければならないのだった。
子猫が空き地で昼寝をしていて、ミルクをのんだばかりとおぼしきお腹がふっくりふくらんでいたとしても、『かわいい』などと思ってはならない。わたしは心を動かしてはならない。天鵞絨以外の対象に愛情を注いではならないからだ。
天鵞絨への忠誠は、いつか完全にひとつに重なるわたしたちの、『わたしたち』という人格を形成するのに欠かせないものだと思っている。
『わたしたち』という人格を築いていくために必要なのは、おもに私の努力なのだ。
わたしは信じていた。
わたしの努力や、少しばかりの犠牲を天鵞絨に気取られてはならない。気づかれなければ、うまくいく、と。」(p.34-35)
えりは天鵞絨に近づくために、精一杯のことをした。
天鵞絨と関係あるもの全てと、結びつきたいと思った。
そうして天鵞絨と繋がる。
これは正しいと思う。
天鵞絨本人よりも、天鵞絨の好きなもの、天鵞絨の家族が大事。
突っ走る恋、突っ走る盲目。
若いな、素敵だな。
でも、憧れない。
いいな、いいな。
でも、したいとは思わない。
2009年6月13日土曜日
『女になりたがる男たち』
エリック・ゼムール著 夏目幸子訳
『女になりたがる男たち』新潮社(新潮新書) 2008
著者はパリの保守系『フィガロ』誌の記者。
パリでのフェミニズム運動が始まる前に生まれ、
女たちが伸し上がり、男らしい男たちの衰退を目の当たりにした著者の、
男性復権を主張する本である。
フェミニストが大嫌いで、
フェミニストに育てられた、女みたいな男も大嫌い。
俺達は誇り高き男だ。
男でなくして、存在し得ない。
男万歳。
女に負けるな。
父権崇拝者であり、男の仕事場と女を守りたい、
代表的な男とも言える著者の意見には、賛同しかねる部分も多くある。
しかし、現代のフェミニズムなのかなんだか分からないが、
こんなに男性、父権を持ち上げた本を見た事が無かった。
あるとしたら、昭和の女学生批判の本ぐらいだ。
女を批判の対象とし、男が生物学的雄として自信を持てと主張している。
そうだそうだ!
男と女は生まれながらにして敵なんだ。
どんなにセンチメンタルでロマンティックな言葉を並べたって、
物質的な違いは決して越えられない。
セックスはセックス、愛は愛。
愛のあるセックスなんて、存在し得ない。
セックスは物質的で、圧倒的に、現実。
愛は抽象的で、限りなく、フィクション。
NHKでも民放でも、「草食系男子」が話題になっている。所謂「恋愛に消極的な男の子」らしい。
それはフェミニズムの賜物。
女に逆らわず、女に優しく、女みたいにオシャレで、女みたいにシャイ。
それを男たちに強制したのは女たちで、
純粋で正直で本能的な男たちは、強い女の言う事には逆らわない。
でも女にとっては、言外の望みが一番大事だった。
女の性的欲求を満たすほどに、男の性的本能を守ること。
けれども、女は男の本能を削ぎ落とし過ぎた。
女に都合の良い本能すら捨てた男は、男ではない。
何と自分本位なこと。
肉体的女と、肉体的男を語ることを許さなかった女たちは、行過ぎた結果にがっかりし、肉体的男を責めるのだ。
私は、女に生まれた。
生まれた後に、女になるか、男になるかなんて、誰も変えられない。
私はフェミニズムは良く分からない。
関連書も読んだことが無い。
でも、たぶん、フェミニストとは仲良くなれないのだと思っている。
男頑張れ。
女はもっと頑張れ。
2009年6月1日月曜日
『高校生のための』
新しいんだけど、懐かしくて、買ってしまった。
この気持ちを表す言葉は、日本語にないのかしら。
筑摩書房の
『高校生のための現代思想ベーシック ちくま評論入門』 2009
『高校生のための現代思想エッセンス ちくま評論選』 2007
高校入学の時だったか、
父親が私に買い与えてくれた本が、以下の4冊。
『高校生のための小説案内』 1986
『高校生のための批評入門』 1987
『高校生のための文章読本』 1988
『日本古典読本』 1988
いずれも筑摩書房の単行本で、
特に『高校生のための』三部作は、やたらめったら評価が高い。
教科書のような、アンソロジーの形を取っていて、とても読みやすいのです。
が、内容はあまりに学校の教科書と懸け離れている。
こんなこと書いて良いの!
素晴らしい考えだ!
こんな人になりたい!と、
どの文章も私に影響を与え、思考させ、陶酔させ、悩ませた。
考えることを止めてはいけないと思う時には、
常に、この本の存在が脳裏に浮かぶのです。
2ページの文章を読んだだけで、
「私はこの人より賢くなれない」と思わせる文章の集まり。
私は愚かかもしれないけれど、ならば、もっと、他者から学び、自分自身で思考することを諦めてはいけない。
私は常に、過去の私以上で居たい。
2009年2月17日火曜日
『昭和美少年手帖』
いろいろと、
話題に上っている新撰組マンガ、
『風光る』 渡辺多恵子 小学館フラワーコミックス
を読み、思わず
『ランプの本 昭和美少年手帖』 中村圭子編 河出書房新社
を購入。
武士素敵。
武士になりたい。
自分のために死ぬ女子ではなくて、
心に決めたひとりの為に死ぬ武士になりたい。
美しい少年には価値があると認めていた、江戸時代の社会が素敵だと思うのです。
そう、少年は美しいのです。
声変わりして、髭の生え始めた男性は、美しくない。
女らしさを知った女が、美しくないのと同様に、
男らしさを知った男は、美しくない。
男と女の恋は畜生の恋。
男と男の恋こそひとの恋。
女に溺れることを恐れた、へたれ男子集団が作った屁理屈でも、
女を買うお金の無い貧乏浪人たちのひがみであっても、
それを師に教わり、教訓とし、
忍ぶ恋に眠れぬ夜を過ごした、真摯な武士達の精神は馬鹿にできません。
3年おきぐらいに来る武士ブームも、
今回はなんだか大幅に偏りを生じ、
他言できない方向へと進んでゆきそうです。
神や仏を、命を賭けて仕えるべき方と心に決め、
全てはその方のために。
シスターや尼さんが美しいのは、この迷いの無さなんでしょう。
あぁ、美しい人になりたい。
死に方を選ぶための生、そんな期間です。
2009年1月2日金曜日
『わたしは驢馬に乗って下着をうりにゆきたい』
二階堂奥歯の読書録から、
選んでみました。
『鴨居羊子コレクションⅠ 女は下着でつくられる』 国書刊行会 2004
日本で始めて色つきの下着をデザインし販売した、
チュニック創立者、社長、記者、随筆家、人形作家、デザイナー。
人生と言う物語とは、
こんなものなんだ!と、勇気がわく本でした。
開拓者です。
「当時、お風呂場でぬぎすてた上衣の中身には、何とタマネギのように何重もの下着がどっさりとくっついてきたことだろう。愛着すら残らない単なるメリヤスのシャツやメリヤスのシュミーズを、冬の長い年月を毎日毎日ゴロゴロと体にくっつけているのである。ついには、ゾーキンかボロ布のようにすら思えてきて、朝服を着るときも、夜服を脱ぐときも、それは人生の重荷を象徴するかのように、にぶいネズミ色で重かった。私は冬がいやだった。」 (「わたしは驢馬に乗って下着をうりにゆきたい」p.39-40)
「黒タイツにつつまれた私の脚は考えていた。実用的なことが同時に美しいというわけにはゆかんもんだろうか?毎日毎日働くこの体、この脚は毎日機能的で心地よく、そして美しくたのしくないといけない。ある日は、よそゆきのために、美しい薄着をし、ふだんはひどく腹のたつ、もたついた分厚いものを着ねばいけないということが気にくわない。『実用品』を名のっているメリヤス製品が、実ははなはだ着心地わるく、肩がこり、人生がいやになるシロモノすれば、これはほんとのイミの実用性とはいいがたいじゃないの、と私は思っていたが、多くの人々も無意識にしろそうだったと思う。」(p.41)
初売りの買い物は、下着に決定です。
今まで買った事のないような、かわいくて華やかなものを買おう!
登録:
コメント (Atom)