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2013年5月23日木曜日

ワルシャワ旅行2012

ポーランド・ワルシャワの詳細を記す前に、ドイツに行ってしまいました。
冬のワルシャワ1人旅と、春の南ドイツ2人旅。この対比を味わいながら、まずはワルシャワの旅行を記録します。




この旅の目的は、本当にそこにポーランドがあり、人々がポーランド語を話し生活していることを確認するためでした。
なんて言ったって、私にとってのポーランドは、極東の島国に住む若者が妄想する憧れの異国、の範囲を出なかったのです。
がんばってポーランド語の勉強をしているけれど、ワルシャワに行ったらロシア語やドイツ語が主流になってたらどうしよう。ワルシャワに行ったら、ほとんどの人が南に移住した後だったらどうしよう。
実物も見たこと無いのにポーランドが好きなんて、もうこれ以上言い続けることができなくなったのです。

雪国の真骨頂は冬だよね♪ということで、クリスマスマーケットの時期に合わせて出国しました。



まず、ワルシャワのショパン空港に降り立って思ったこと。「寒い」。
100デニールのタイツを履いて、綿のレギンスを履いて、スキー用の毛糸の靴下を履いて、その上からジーンズを履いていても寒い。
耳当てのついた毛糸の帽子をかぶって、鼻までマフラーで覆っても、目の周りが寒い。痛い。
ホテルに着くまでに、すっかり骨まで冷えた私の足は、エアコンの暖房やシャワーなんかじゃ全く暖まらないのです。
冷たいベッドの中で、本当に、鞄でもいいから何か燃やさなきゃだめだ、と考えていました。



それから、ワルシャワの中心、新世界通りを歩いて思ったこと。「ツメが甘い」。
何の比喩でもなく、歩道の石畳のツメが甘い。街灯の生え際がガタガタ。
車道の舗装もがたがた。凸凹じゃなくて、ガタガタ。
3日目に、日本から持って来た分厚いスキー用の手袋をコーヒーで汚してしまい、折角なので中央駅近くのショッピングセンターで新品を買い求めることに。ポーランド人をしばし観察してそれなりに売れている黄色い手袋を、購入。そして装着。
ツメがあまーい!
編み目スッカスカじゃないか!なにこれっ!うわっ!さむっ!MADE IN CHINA!?おい防寒しろ!もっと防寒の努力をしろ!!自分たちで作ってもっと居心地良くする努力しろー!いや、むしろ私にやらせてください。舗装も編み物も初めてだけど、私、絶対現状より上手くできるから!!ホントマジで!
本屋に入ると、壁一面の本棚にもテーブルの上にも隙間なく並ぶ本。下を見ると、お客さんの靴底についてきた雪と土で、床は泥だらけ。店員さんはひたすらせっせと、モップをかけているのです。本当に、休む間もなく。
…えっ、冬は毎年雪降るんだよね。毎日モップかけてるの?えっ、ずっと?何年も…?
入り口にマットあったけど、全然吸水しないやつじゃん。もっとこう、吸水するやつ置こうよ。詳しくないからわかんないけどたぶん凄いの日本に売ってるよ。買ってこようか?



観光スポット巡りに参加して思ったこと。「白い」。
集合場所近くの公園が、積もった雪で白い。凄く広いし、木の葉っぱも無いし、ただただ、白い。
観光バスの窓に氷が張り付いていて、白い。ちなみに、バスの中からは、ほとんど何も見えませんてした。
だいたい曇天で、空も白い。日が沈んだ後も、街灯の明かりが雪に反射して、白い。



そして、旅全体の感想。「死ぬかと思った」。
初めての一人旅で、とても緊張していました。ホテルの鍵を何回も確認し、テレビをつけたまま寝ていました。
空は朝7時頃明るくなり、夕方4時には暗くなります。夜は気温もどんどん下がります。短い行動時間の中で、新市街を旧市街を、歩いて歩いて歩きまくって、暗くて歩くのが怖くなると路線バスでホテル近くまで帰りました。
観光ガイドに載っている公園は、当たり一面真っ白で、誰もいません。雪に埋もれて自分の足音さえ聞こえず、しんしんと雪が積もる中、あ、ここで死ぬかも…という考えが自然とわいてきました。
真っ白な雪に、赤い鮮血が似合うだろうなとか、そんなことも。


ああ、でもやっぱり素敵なところだわ!
大戦後に絵画をもとに再建された、本当に絵のように美しい町並み。ちょっと欠けたレンガの壁や、くずれかけた階段、歩きにくそうな石畳。屋根の無いバス停で、押し黙ってバスを待っている老若男女。車内でも、無言で寒さと振動に耐える人々。
パン屋でも本屋でも洋服屋でも露店でも、店員と商品についてあれこれと話し込むお客。真夜中に、酒屋に走ってゆく1人の男性。凍った車。
人で溢れたカフェの店内を包む温かい空気、何枚も重ねた服を脱ぐ衣擦れの音、食器がぶつかる軽い音、聞き慣れたポーランド語の挨拶、全く分からない話し声。
全部全部、読んだ小説や見た白黒映画、そのまんま!
一生懸命、全身で受け止めて、どれだけ日本に持って帰れるかしら。

私はまだ、ポーランドの一部のワルシャワの一部、ほんの一部しか知らない。
絶対もう一度行く!
私まだポーランドのこと全然分かってないんだから。

2012年12月24日月曜日

ポーランド愛の話


現在2年程、on and off でポーランド語の勉強を続けています。
理由は大好きな小説を原語(ポーランド語)で読みたいっ!と思ってしまったから。
詳しく書くと、ヴィトルド・ゴンブロヴィチの『ポルノグラフィア』を冬支度の始まったポーランドで、ポーランド語で読んで興奮のあまり鼻血を出して死にたい、と思ってしまったから。
如何に生きるかと、如何に死ぬかは同義である!混沌とした時代で将来に不安を覚えていた私は、こんな方法で毎日を楽しく過ごす術を得たのでした。


そして最近は、ポーランドイベント盛りだくさんだったのです。
まずは岩波ホールでの『菖蒲』上映。私は一昨年のEUフィルムデイズで見ているので二度目なのですが、素晴らしい。
この生者にまとわりつく死臭、終焉の予感が、若者をより美しく魅せる。ゴンブロヴィチの作品にも通じる何か闇の香りが確かに、ある。なんなんだ、これは。泣きたい。こんな素晴らしい芸術がこの世の中にあるのか!と衝撃を受けた作品です。




そして、渋谷で行われたポーランド映画祭2012。
どうせ見れるなら解説付きの上映に行こうと一日予定を開けておいたのですが、まさかの(大変失礼)満席。午前中に行ったのに、夜の回しかチケットがとれずに、突然の暇。青山マルシェでビーツを買って、ボルシチ作ってしまったわ!(ポーランド風のビーツのスープ「バルシチ」はどうやら難しそうだったので、ロシア風「ボルシチ」でご勘弁)
鑑賞した『水の中のナイフ』は1962年制作のロマン・ポランスキー初監督作品で、とっても影の美しい白黒映画。共産党政権下のポーランドでは、女性の裸姿、妻の不倫というテーマ、作品中に流れるジャズがタブーだったのですが、西側諸国で大絶賛されたという、時代を感じる作品です。夫婦と青年の対比、価値観の違い、貧富の差、社会的立場の差などがぎゅっとボートの中に詰め込まれた濃厚な作品です。
上映後の解説では、イエジー・スコリモフスキ監督という偉大で超キュートなおじさまが登場。ロマン・ポランスキー監督と撮影秘話なども教えてくれました。
当時ポーランドでは、アメリカ文化の象徴として、ジャズの演奏が禁止されていたので、各地で地下演奏会が開催されていたこと。作品中の自家用車はベンツだったが、政府の圧力によって外身はプジョーで撮り直したこと。撮影中、控えている救助隊が骨折したことなどなど。

それから気になって気になってしかたなかった、Szaza(シャザ)による生演奏を鑑賞。
無声映画に生演奏をするなんて、高校の歴史の資料集でしか見たことが無かったものが体験できるなんて。音楽はエレクトロニカ。私の趣味を調査したような、平沢進のハルディン・ホテルのような、奇妙で不安になる音楽です。
目に涙がにじんだ。もちろんCDも買った。
どなたかこんな感じの音楽を他に知っていたら教えてください。大好きです。


そして私はついに行った!冬のワルシャワへ。
寒い国の真骨頂は寒い時だよね、とか思ってわーいと飛んでみたけれど、ほんとうに寒かった。白かった。
自分の足音さえ聞こえない、真っ白で無人の公園を歩きながら、私は死ぬことばかり考えていた。死んだらどうやって発見されるんだろう、とか、ちゃんと日本人だって分かるかな、とか、パスポートに実家の電話番号書いとかなきゃとかそんなこと。
ロシアやポーランドの文学作品は何でこんなに死ぬことばかり考えているんだろう、と常々不思議に思っていたので、本当に行って良かった!私も死ぬことばかり考えていたよ!
「そんなの東北でも十分体験できるぞ!」と会社の先輩に言われましたが、その他の感想はまた後日。

2012年7月22日日曜日

文学座『NASZA KLASA』

2012年5月31日、初めての自主的観劇。

演劇が好きな親戚に連れられて、いくつか演劇を観に行ったことがあるはずですが、ほとんど内容は覚えていません。子ども向けのアニメや舞台の狂気的な演出にショックを受け、ミュージカル恐怖症を患った私は、幼少のころから、舞台作品というものを避けて生きてきました。
バンドもオーケストラも大好きなのに、ライブやコンサートに行くことも稀。
オペラティックな音楽も大好きなのに、歌劇も見に行かず。
演劇部の友人に誘われても断り続け、
知り合いのミュージシャンのライブもなかなか参加せず。


そんな私が、文学座の『NASZA KLASA』を観劇。


ポーランド語で「私たちのクラス」を意味するこの劇は、史実、イェドヴァブネ事件をあつかった作品です。

イェドヴァブネ事件は、第2次世界大戦中、ポーランドのイェドヴァブネという町で起こった、ユダヤ虐殺事件です。
ナチスによるユダヤ人虐殺が行われる前に、カトリック教徒たちが自主的に積極的に、一緒に住んでいたユダヤ教徒を、虐殺したと言われています。


政府文書と村人の証言には矛盾があり、未だなお謎の多い事件ですが、
この作品は、同じクラスメイトであったユダヤ教徒とカトリック教徒、10人の人生に焦点を当てています。
同じクラスの人間が、虐殺する側と虐殺される側に別れる。悲しみと憎しみを見事に描いた作品でした。


大道具は、教室の椅子と机のみ。
蹴飛ばされる椅子、床に叩き付けられる机。犯される机。
客席近くで、倒れる男優。屈辱の叫びをあげる女優。
なんという狂気!なんという演出!
「演じて魅せる」という芸術に、はじめて触れたような衝撃でした。


そしていつもいつも、海外の名作にであった時に覚えるもやもや感。
人をここまで狂わせる宗教ってなんだ…
神ってなんだ…



素晴らしい時でした。

2010年8月23日月曜日

『フェルディドゥルケ』


2010,08,23 (Mon)
『フェルディドゥルケ』
W. ゴンブローヴィッチ 米川和夫訳 平凡社

もう1年程前に初めて読んだ本なのですが、
あぁ、感想が書けない、まだしっかり理解で来ていない。
と思い、繰り返し読んでいました。
やっとメモを取る程の感想が出てきたので、記します。


主人公は、30歳にして、17歳と偽り、学校の6年級に入学させられる。
未熟さを賞賛する主人公に下された、大人達による、再教育である。
10代の少年達と学校で過ごし、下宿先の家庭では、現代的な女学生と一緒に暮らす。
大人の望む若さを受け入れる学生、
大人の望む若さに真っ向から反発する学生、
大人達の考えには目もくれない学生。
そんな、若さに囲まれ、主人公は悩み、苦しむ。

初めはためらいがちだったが、しかし、一度、口火がきられると、あとはもう急調子で生徒一同、酔いどれの荷馬車引きでも恥じらうにちがいない、きたないうえにもきたない言葉のありったけを争って口にし始めたのだ。そしてお互いに猥雑な悪口雑言や下劣な言葉を熱っぽく人の目を盗むようにしてすばやく取りかわしたばかりか、何人かの者は、塀に白墨でもって、わざわざそうした言葉を幾何学的な図形に書き直して見せたりした。(中略)俺はみんなをとめようとした。
(中略)「なぜそんな下劣な言葉を?!」
「黙ってろ、洟ったれ!」思いきり下品なその悪童は俺にひと突きくらわしながら、こう答えた。(中略)「これはな、愛らしい臀部だなんて子供扱いされねえための、おれたちに残されている唯一の手段なんだ!見てみろ、視学のやつ、柏のかげから狙ってるぞーーーおれたちの一人前のけつをしょんべんくさいおちりにしちまおうと思ってな。分からねえのか?」
(p.49, l.9-p.50, l.6)

「足。」現代性にたいする俺の関心をかきたてようとするのだ。「足にきまっている。わしはおまえたちを知っているのだよ、おまえたちのスポーツ、新しいアメリカナイズされた世代の風俗習慣の事を。手よりも足のほうがいいのさ、おまえたちには足がなによりも大事なのさ。ふくらはぎ!精神文化なぞおまえたちにはなにものでもない。ただ足だ。スポーツ!ふくらはぎ、ふくらはぎ!」むやみやたらとおれの若さにこびようとする。「ふくらはぎ、ふくらはぎ、ふくらはぎ!」
(p.193, l.4-l.9)

成熟などというものを彼女を彼女は侮蔑していた。いや、彼女にとっては、未成熟が成熟にほかならなかった。顎ひげた、口ひげなど認められない、乳母にしろ母親にしろ子供をだいた女など認められないというわけでーーー彼女の魔術的な力の源泉がここにあった。彼女の青春はいかなる理想をも必要とはしないのだ。なぜなら、それ自身がすでに理想だったからだ。おれがーーー理想の青春によって悩まされ苦しめられているおれが、こうした理想の青春を燃えるように渇望したとしてもふしぎはなかろう。しかし、彼女はおれを求めなかった!おれの顔をつらにした!しかも、日ごと日ごとに、ますますもってすさまじくなる一方のたいそうなつらをおれにあつらえてくれたのだ。
(p.238, l.18-p.239, l.7)

この作品には、身体の一部が多く、象徴的に用いられている。
それは、男性器や女性器ではなく、尻、おちり、顔、つら、ふくらはぎ、足など。
本人も著作の中でこう語る。

肉体の基本的部分、飼い慣らされた従順なお尻が本書においては構成の基本となっていて、ほかでもない、つまり、このお尻から物語は始まるのだ。お尻というのは、木でいえば、畢竟、根もとのようなものであって、そこから個々の部分がさらにこまやかな根や枝の分かれとなって分かれてゆく。たとえば、足の指、手、目、歯、耳といった具合だが、そのさい、ある部分部分は、繊細にして精巧微妙な形態の推移のせいで、目にめとまらぬほど玄妙不可思議な変わりようを示す。そして、人間の顔ーーーある方言ではむちという人間の顔は、尻の根もとからもろもろの部分となって育っていった木のいただきを飾る葉の茂みだ。つまり、むちは尻によって始められた連関過程をとじる部分なのだ。そこで、今こうしてむちにまでどうやらたどり着いた以上、ふたたび尻にまで戻るためには、その間にある個々の部分の部品をまた逆にたどって行くほかない。
(p.126, l.17-p.127, l.7)

この作品の男と女の扱いは、『ポルノグラフィア』に比べて、驚く程、軽い。
男女と言う組み合わせは、まるでこの世の、主人公とは別の世の、理のように描かれている。
求めるのは、男同士の兄弟付き合い。
まるで、男女の付き合いから逃れるように、兄弟付き合いを求め、それは結局、失敗する。
この本は一冊まるまる、主人公の悩みと混乱で埋め尽くされている。

2008年7月12日土曜日

『日記』


『ポルノグラフィア』の訳者あとがきに引用してある、
ゴンブロヴィッチの日記の一節が、気に入ったので。

<<わたしはエロティックでない哲学を信じない。私は非セックス化された思想を信じない……
ヘーゲルの『論理学』は肉体とある距離を保つことなしに着想され得たと考えることはむずかしい。だが、純粋な意識は、再び肉体のなかへ、セックスのなかへ、エロスのなかへと浸られるべきものであり、芸術家は、哲学者を、あらたに魅惑のなかに投げこまねばならない>>

なんてこと。
私は自分の身体から逃げられないこと、
この肉体を持っている限り、
責任を負わなければいけないと思っていたこと。
それを肯定してくれるんですか?
この私は、女という変えられない肉体の中の現象なのだと、思いますか?

この場合、「エロス」とはどう解釈すればよいのでしょうか。
肉欲?物欲?
男と女は、一組で完璧であるということ?
もっと、この著者のことを知りたい。


しかし、もっと問題なのは、
1967年7月の時点で、同じ一節を、
青い万年筆でマークしている人がいるということ。

同じ万年筆でサインもしてあるし。
なんて読むかわからないし。
誰だろう。
もう、41年も昔のことだけど、
こんな素敵な本の上で会えてうれしいです。

2008年7月11日金曜日

『ポルノグラフィア』


大学の図書館で、紙の匂いがする本を発見。
河出書房の人間の文学シリーズの26。
1967年の初版本。

『ポルノグラフィア』 ヴィトルド・ゴンブロヴィッチ著 工藤幸雄訳 河出書房


あれ?
これ、結構いい古本なんじゃない?
『春本』なんて題名の本が、ただのエロ本であるわけがない。と確信して。
装丁もかわいい。

鼻血が出るタイプのエロじゃなくて、
よだれが出るタイプのエロ。
はい。大好きです。

「目の前をゆく彼女の動きは、ある種の方法で少年とかかわりをもっているようにも見える。おなじく群衆にもまれながら、すぐ近くでもがいている彼の体の動きにひそかに答え、ささやきかわすかのようだ。本当に?目の迷いではないか?(中略)
彼女の中のすべてが(彼のために)存在していた。少しはなれて、人びとの間を平静に歩いている少年も、じつは彼女の方に惹かれ、彼女によって緊張している。昂然と、あたりかまわず、しかも落ち着きはらって群衆に混って進んで行く、自分自身に惚れこみ、憧れながらあれほどまで無関心なさま!ああなるほど!そうか!一目見たときから私を圧倒した彼の秘密が、いまこそ分かった。」(p.32)

「私には分かっていますよ、そうすることは彼らにとって、あまりにも完全すぎるから。あまりにも完璧すぎる。
不完全が完全になる、これが鍵です!
偉大なる神よ!あなたは完全そのものだ!だが、あれはあなたよりはるかに美しい、私はこの手紙で、あなたを否定します。」(p.182-183)

「『失礼!sex appealのことを考えていたんです。普通そう呼んでいるものを。二人がいっしょにいるのを初めて見たとき……一年も前ですが……すぐに気がつきました。セックス・アピール。引力、性的引力です。(中略)
いまになって、それがもしかしたら――私の想像以上に、何よりも悪いものではないかと恐ろしいのです。(中略)
二人は地面に倒れた……どうも違う、普通の動きではありません。それからすぐ起き上がった――これも違う。そうして立ち去る、やっぱり違う。あれは何です?何の意味です。ああいうもんじゃありません!』」(p.208-209)

そう、不完全だから美しい。
完全に憧れ、自分の不完全さの魅力に気づかずに、
堂々と不完全を人目に晒している。
こんなにも、人を楽しませている事も知らずに。
その無知もまた美しい。

もちろん古本屋さんに注文しました。