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2023年9月19日火曜日

「本当に好きなもの」や「個性」を見つけて伸ばすことについて

 小学生と中学生を子育て中の親御さんから、
「うちの子には、本当に好きなものが無いようだ」
「仲の良い友達の趣味と、合わせているだけのようだ」
という相談を受けました。
あまりに衝撃を受けたので、この1年ほど、このことを考えています。

ちょっとそのことについて整理して、
どうにかして親御さんに伝えたいな〜と思ったので、記しておきます。

確かに、最近の子育てのテーマは、
個性、主体性、自主性、好きなこと、自分で考える、
才能、強み、得意なこと、興味のあること、本当にやりたいこと......、などなど。
特別でオンリーワンの人間になることがとても重要視されているようです。

個人的には、
子供は、親や周囲の大人の行動をよく観察していて、
大人の真似をしたり、大人たちが強く反応してくれることをするので、
本当の個性や真にやりたいことなど、無い、と考えています。
というのも、多くの大人もそうだと思うからです。

読書会を10年間やってきて、ぼんやりと思っていることなのですが、
ほとんどの人は、心から大好きな小説を見つけるために、
未知のジャンルの本や、好きじゃないかもしれない作品を手に取るなどということはしません。
数少ない小説を読む大人の中でも、大部分の人が、
本屋大賞を取った作品の中から興味ある小説を選んで読んだり、
同僚や友人の間で話題になっているドラマを追いかけて見たり、
金曜ロードショーでやっている映画を見たり、
巨大な美術館でやっている展覧会を見に行ったりして、
それなりに楽しんで、しっかり満足して、次も同じようなことをするのです。
それは、とても充実した生活だと思います。

流行っている漫画を読んで、帰宅時間に放映してるドラマやスポーツ中継を見て、
行列ができているお店で人気のメニューを注文して、
感じの良い会社で働いて、
異性と恋愛して、異性と結婚して、子育てして、親のお世話もして、
多くの人は幸せに生きているのだと思います。

ヤマシタトモコ『違国日記』を読んで、改めて、
「何者かになれ!」という社会の圧力は強烈なのだな、と認識しました。
この作品の粗筋をざっくり説明すると……
両親が交通事故で亡くなるという
強烈な特徴を背負ってしまった中学生の田汲朝が、母の妹の高代槇生に引き取られます。
槇生は、命を削るようにして小説を書くという、個性が爆発している作家。
朝は、悲惨で特異な経験からユニークな人間になれるんじゃないかとか、
自分の本当にやりたいことを見つけられたら才能が開花するんじゃないかとか考えて
バンドを組んで見たり詩を書いてみたりしていますが、特に何も起こりません。
過去の経験と向き合ったり、今の自分の立ち位置を客観的に観察したりして、
しっくりくる自分の人生の物語を見つけようと、苦悩します。

他にも、魅力的な友人たちも登場するのですが、現時点の私が要約するとこんな感じです。

もしかして、「本当にやりたいことを見つける」がテーマの作品は多いのでしょうか。
失恋したり、会社をクビになったり、配偶者が亡くなったり、
異世界に転生したり、悪女の企てによって聖女の職を奪われたりして、
その先で、本当の自分を見つけて、幸せをつかむストーリー。

やっぱり、違和感があるのは、
誰にでも理解しやすかったり、誰かに共感してもらえたり、
過去と現在の辻褄が合っていたりする、
そういう人物像とライフヒストリーは、個性とは真逆のものだと思うのです。

それは、「自己ブランディング」です。広告です。商業活動です。
セミナー講師やTikToker、活動家など、
制作物やサービスではなくて、その人がその人であることを売っている方々が取り組むことです。
もしかしたら現代では、作家もまた、自己ブランディングが必要なのかもしれません。

リーヴ・ストロームクヴィスト『21世紀の恋愛』では、
恋愛までもが資本主義に取り組まれてしまい、
国家や社会が、より市場価値の高い恋愛をするように煽るので、
好きな人を商品のように選択できるようになってしまったことを、痛烈に批判しています。

今は、個性がいちばんの市場価値なのかもしれませんね。

 

(写真は、先日行った行列のできているアイス屋さんです。)

2021年8月29日日曜日

李琴峰作品の潔癖さについて考えたことメモ

この文章を書いているのは、
日本国籍を持ち、日本語を第一言語として育ち、
上京して正社員として働いている、修士号を持つ健常者である、
ということを念頭にお読み下さい。

李琴峰作品には、ザラリと残る後味がある。
ポリティカル・コレクトネス的正しさとか、正義感が強いとか、
説教くさいとか、綺麗事だとか言うこともできると思う。
これについて、うまく説明できないでいた。
李琴峰ファンとして、彼女の言葉を聞いたり読んだりして、
いま、やっと説明できそうなので、ここにメモしておく。

1、差別に理由はない
2、マジョリティの特権は認識しにくい
3、差別の中から生き残れるのは、ラッキーな人たち





1、差別に理由はない

「人権は大事だ」とよく言われているということは、つまり、
私が生きている社会は、人権が大事にされていない社会である、と思う。

日々の生活の中には「あ、私今、相手から大事にされてない」とか、
「勝手にカテゴライズされて笑われてる」とか「理不尽な目にあっている」と思うことが多い。
タクシーの運転手に、答えたくないプライベートな質問をされた時や、
自分の意見が全く反映されていない議事録を読んだ時や、
ニュースアプリに登録したら女性だというだけでアパレルのプレスリリースばっかり届いた時や、
保険屋や不動産屋が、自分の希望を全く無視した商品を紹介してきた時や、
趣味を他人に笑われた時や、
甘いものが嫌いなことを「意外だ」と言われた時や、
血液型占いなんかを引き合いにして「O型っぽい」とか言われた時などが、そうだ。

李琴峰作品の登場人物は、賢く正しい。そして差別されている。
この2つは両立する、ということをしっかり理解する必要がある。
差別してもいいとカテゴライズされてしまった人たちは、
ただ生きているだけで、犯罪者とされたり堕落者とされてしまう。
差別する理由などないし、あってはいけない。
このことを書き止めているのが李琴峰作品だと思う。


2、マジョリティの特権は認識しにくい

自分がマジョリティに所属していることは、非常に認識しづらい。
これについては、上智大学の出口真紀子教授の記事が素晴らしいので、下記をご確認ください。
https://www.jinken-net.com/close-up/20200701_1908.html

そして、差別しているマジョリティを認識するのも、同様に難しい。
以下に自分の体験を記しておく。

私が学生の時から、東京出身者による、
千葉や埼玉、北関東や、東北出身者への侮蔑を目にしていた。

私は長く、千葉・埼玉・北関東・東北出身者の特徴だと思っていた。
「何で茨城の人たちはこんなに、卑屈なんだろう…?」
「埼玉の人たちがいうダサイタマって何? 私そんなこと言ったことないのに…」
「なんで自分の出身地をそんなに卑下するんだろう?」などと疑問に思っていた。

東日本大震災のときも、そう思っていた。
震災から1年後、福島県出身の友人2人が、
最近2人だけで頻繁に会っているらしいと、耳にした。
「福島出身者だけで話したいことがある」という理由だった。
その時私は、身勝手にも、仲間外れにされて嫌だなと思った。

ほとんど東京に出荷するために農作物を作り、電力を作ってきたのに、
原発事故が起こると、「汚染されているから要らない」と拒否される。
この問題も、私はどうしても差別と結びつけることができなかった。
多くのメディアや識者は、きちんと理解し発信していたと思う。
だけど私はよくわからなかった。
なぜなら私は、
卑屈で劣等感が強く差別され続けている人々をたくさん見てきたけれど、
差別している東京の人を認識していなかったからだ。

李琴峰作品に強い正しさを感じるということは、
自分の、無知でいられるマジョリティ特権を指摘されて不愉快だからだと、考えられる。


3、差別の中から生き残れるのは、ラッキーな人たち

差別する理由がないのと同様に、
差別されている人が生き延びるのにも、理由はないと思う。

理不尽な目にあったり、侮辱を受けた時に、
自分を癒し、また明日も生きようと思うためには知識が必要だ。
きちんとした知識を得るためには、
それなりの収入と、健康な精神と、文化的な経験も必要だと思う。
それよりも大事なことは、運が良いことだと思う。

運良く素敵な友人に出会えたことや、
幸運なことに自分の居場所があると感じることができたり、
幸いにして良い大人に出会えていたりすることなどである。

李琴峰作品は、差別から生き残ることができそうな人々を描いていると思う。
だから、運が良いのだ。
運が悪い人は、差別を受けたら生き残れない。

2019年2月5日火曜日

百合部ミーティングと『女子BL』のおかげで、腐女子と百合男子の理解が変わった。

ごめんなさいと、最初から謝っておきます。
申し訳ありません。愚かな考えでした。



私、「萌え」って、ある種の支配欲、みたいな感情だと思っていました。
その言葉が流行ったときには、
ドジっ娘とか、ツンデレとか、幼女とか、
古典的な、性欲を隠れ蓑にした支配欲がジャンルとして強かったのだと思います。
「熟女萌え」が登場したとき、おや?と思いましたが、よくよく話を聞くと
「社会的地位のある自立した女が、何か可愛い趣味がある」とか言われて、
それ自分より強い人間の弱い部分を探して喜んでるだけじゃーんって思ってました。
その理解は、この10年間変わりませんでした。

BLに関しても、
「男が、悩んだり泣いたり照れたりしてる、いろんな姿が見たい」という
男を女と同じ地位まで引きずり下ろすもの、として理解していました。
実際そういう場面、テレビとか雑誌ではあんまり見ないしね。
だから、女性向けという点で、BLもTLも非常に距離が近いのだ、と。
男性向けという点では、百合に関しても、ハーレムアニメとたいして差異がないと。

そこで処理しきれなかったのは、そう、
BL好きの女性と、百合好きの男性がよく言う、
「カップルの部屋の観葉植物になりたい」「壁になって見守りたい」ということ。
すごく頻繁に聞く。

とはいえ、観葉植物になったり壁になったりできない訳なので、
「これは本音なのか?」と疑っていました。
重ねて、本当にごめんなさい。

でも、
こんなにたくさん「観葉植物になりたい」って言う人がいるってことは、
真剣に考えなきゃって思ったし、
百合イベントとかに来る男性とか本当にいい人っぽいんだよ。
男らしさを振りかざしたりしない男性、
こんなにたくさん集まってるの見たの初めて!って感じです。
意識的に、BLや百合を読んだり、トークイベントに行ったりしてきて良かった!

現在の理解。
男が女を、あるいは女が男を、純粋に愛でる方法なんだ!
関係性を約束したり、対価を求めたり、束縛したり、
付き合ったりする以外の、愛でる方法だ!


そうそう、それって私も感じていた、
異性愛至上主義によって、無いものとされていた感情だよね。

物語上では、男と男、女と女の関係や経験の共有は
すごくよく描かれるのに、恋愛感情だけは存在しない。
男の女の関係は、好きなのか嫌いなのか、
肉体関係があるのかないのぐらいしか話題がない。
ということを、幼い私は思っていました。
そんなことないよって言うことはもうわかっているんだけどね。
でも、メインストリームではないよね。

異性愛至上主義からあぶれてしまうのは、
純粋に、異性を見ていたい、応援したい気持ち。
そして、同性に欲情する気持ち。
同志じゃん!!

はー、なんかちょっとスッキリした。

書泉ブックタワーで行われた百合部ミーティングについては、
Twitterで #百合部MTG を検索してください。
『女子BL』は、電子書籍でお楽しみください

2016年12月11日日曜日

装うことについて

ずっと気になっていたけれど、「私にはまだ早い」と思って読んでいなかった本。
こんなきっかけで読むことになって、とても残念。
もっと早く読めば良かった。


雨宮まみ『女の子よ銃を取れ』平凡社


外見も立派なコミュニケーション手段であると知りつつも、
自分の服と化粧についてについては、長い間、直視できないでいた。
大きな理由に母親から言われた言葉があると思う。

母親は、裁縫が大好きで、いつも私の服や鞄を作っていた。私が、高校を卒業しても、社会人になっても。
母が私の髪を切っていたので、大学生になるまで、美容室にも行ったことがなかった。
化粧をしたいと言ったら「なに色気づいてるの、勉強しなさい」と言われ、
赤い下着を買ったら「こんなの履いているの」と嗤われ、
母の好きじゃない服を着ていると「似合わないから、それ着て外出ないでね」と悲しい顔をされ、
「足が太い」「デブ」「やせれば可愛いのに」と小学校から挨拶のように言われ続けて、私はすっかり、
「化粧をせず、流行遅れの服を着て、太って可愛くないこと」が自分であると思い込んでいた。

そんな私が最初に食いついたファッションは、ゴスロリ。
誰よりも強く、どんなに傷ついても平気。そんな鎧がほしかった。
ゴスロリに夢中だったのは大学生2年から社会人3年目ぐらいの時だった。
ボーナスが出れば、そのほとんどを、大好きなブランドの店で使った。
23歳ぐらいの時、強烈にレズビアンアイデンティティみたいなものが固まってきたのも影響している。
レズビアンっぽい服装、髪型をしなければいけない、と思い込んでいた。
何が何でも自分が良いと思う服しか着ない!
そうすれば、周りから何を言われても傷つかなかった。

大好きなブランドの店舗が、原宿から池袋に移り、商品のラインナップがずいぶん変わってしまった。
ああ、私は変わらなければいけない、と思ったのは、そんなとき。
仕事で、プロフィール写真を撮った。
カメラマンに「どういう角度から撮った自分が好きですか」と聞かれ、とっさに私は「左側は歯並びが悪いので、写らない方が嬉しい」と言った。
そんなことを思っていたんだと自分にショックを受け、すぐに矯正歯科に行った。
結局、プロフィール写真は、顔の左側から撮ったものになったけれど。


やっと、素直に、綺麗になりたいと思えた。
最初の投資が歯科矯正100万円。

そこからは、ストレス解消に似た、暗黒時代。迷走。
服は、買いだめたものを大切に着ていた。
ヘアカラーは、赤茶、ピンク、オレンジ、黄色、緑ところころ変えた。
だいたいやりたかったことは全部試したかな、次のステージにいかなきゃ。と思えたのは、半年ぐらい前。

だんだん、買いだめた服もくたびれてきた。
半年前、ジーンズを買った。
「あんたはズボンをはくともっと足が太くなるから、はくな」と母に言われたときから、8年以上、ジーンズをはいていなかった。
何度も買おう思ったけれど、いつも試着室で母の言葉がフラッシュバックして、買えなかった。
今では、ジーンズをはくと、そんな時もあったなあと思い出して、
少し、大人になった気がする。

1年前に友達と、はじめて伊勢丹の化粧品売り場に行った。
勢いで買ってしまったパレットも、今は結構使いこなせていると思う。

今は、自分がより魅力的に見える服を選ぼうと、身構えずに思える。
それでもやっぱり、ちゃんと化粧するのが怖い。
新しい服を試着するのが怖い。


額縁に合わせて絵を選ぶことなどありません。絵に合わせて額縁を選ぶのです。私たちはその額縁を、自分で選んでいいのです。そして、それはいつでも取り替えることができる。何度失敗しても、簡単にやり直すことができます。(p.61)


今までも、これからも、彼女の著作は多くの人を救うんだろうな。

2014年2月19日水曜日

辺境論と、ものがたり

ぼんやりと、東京pod許可局の『辺境論』をきき、もやもやしていた問題が何だか整理されてきたので、
とても久しぶりに書き記しておきます。

『辺境論』の内容を要約すると、
テレビとかラジオとかいうメディアは、文化の中心のように見えるけれども、
実は、辺境を写すのに最適なものなのではないか。
だから、変なおじさんとか、オカマちゃんたちと相性がいい。
辺境を中心に持ってくる。それを繰り返しているのだ、と。

そう、わたし、そうゆう物語が好きなの!



そして私がもやもやしていたのは、自分が主催している読書サロンのこと。
セクシャルマイノリティーと呼ばれる、ゲイ、レズビアン、トランスジェンダー、バイセクシャルなどの登場人物が活躍する小説を、応援する会。
そんな会を開きながら、私は、セクシャルマイノリティーが悩み葛藤し、苦しむ小説を、素直に大好き!と言えなかったのです。
ほんとは、好きなんだけど…

別に、苦しんでいて欲しいわけじゃないんです。
幸せが妬ましいわけでもない。
孤独であれとも思わない。
他人の不幸で飯がうまいなんて欠片も思ってない。
でもね、量産型の、想像の範囲内の作品読んだってちっとも楽しくないんだよ。

ものすごい苦しみを経験した人たちがつくる芸術作品は、本当に素晴らしいと、心底思うのですが、
私がこの作品が好き!って声に出してしまったら、
私の、現実社会での、マイノリティーに対する価値観まで詳らかにしてしまうようで、
あえて語るのを避けてきました。



苦肉の策で
「10篇ぐらいの短編集の中に、1、2篇セクシャルマイノリティ作品が入っているのが好きだな」とか答えてました。
世界ってこんなかんじ、ってすんなり受け入れられるから。とかなんとかって。


うそ、うそ。
すごい嘘ついてた。



辺境を中心に持ってくる。
マイノリティーで、イレギュラーで、私の知らない怖い存在を中心に置き、そこから世界を眺め、語る。
だから小説は楽しいんだよ。


普通に何事もなく、セクシャルマイノリティーが登場する作品も、もちろん素晴らしいけど、
セクシャルマイノリティーが、マジョリティーを奪取する日は来ないと思う。
だから小説は、辺境を中心に、マイノリティーを中心に持って来る。
ずっとずっとそれを繰り返す。

2013年5月24日金曜日

ロシアによりみち


2013年春から、貝澤哉先生による「テレビでロシア語」新シリーズが始まったり、スラブ文学者である沼野充義先生がNHKラジオで「英語で読む村上春樹」の講師を務めたりと、ロシア関係でうれしい出来事が続いております。(放送時間は大変不満ですが!)
2012年の冬にポーランドに行った際はモスクワ乗り換えで行きましたので、上空から、あるいは空港の窓から見えるわずかなロシアに、胸を高鳴らせておりました。

酔っぱらうと「ソビエトアバンギャルドだいすき!」とか叫び始める私ですが、実は最近まで、ドストエフスキーやトルストイなどの「ロシア文学」を読んだことがありませんでした。
だって読む前から名作だってわかってるし…
だがしかし、ついに読んだぞ、読書会のために!



■猫町倶楽部 東京文学サロン月曜会
2013年1月27日16:30-
Chano-ma@代官山
課題本:ドストエフスキー『罪と罰』
ゲスト:亀山郁夫

あぁ自白したい、はやく云って楽になりたいという欲求に負けず、なんとか読了しました。
完璧な作品を読書会の課題本に選んではいけないのだと、理解しました。すごい、圧倒された、としか言葉が紡げず、語り合う余地が無いのです…
ゲストは当日まで知らされておりませんでした。亀山郁夫先生!
光文社の新訳古典シリーズ『カラマーゾフの兄弟』が刊行された時の騒ぎは相当なものでした。ロシア文学界では驚異の売り上げを記録し、ロシア文学の再流行とも言われました。同時に、誤訳指摘、解釈違いの指摘、「古典新訳」という企画への反対など、多くのロシア文学者とロシア文学愛好家によるざまざまな文章が発表されました。
渦中の人であった亀山先生は、どんな人なのか。
翻訳という苦悩、校正の苦悩、そして、批判(非難)される苦しみを、穏やかな口調で「つらかった」と、包み隠さず語ってくださいました。
あぁほんとうに、ロシア文学が大好きで、たくさんの人にロシア文学作品が読まれることが嬉しいんだなという印象を受けました。なんだかとても牧歌的で、広大なロシアの大地を思い出させる方でした。そんな景色見た事無いけれど。

ふむふむ。じゃあ次読むものはこれ。
亀山郁夫『あまりにロシア的な。』文春文庫 2013

…本書は、一九九四年の春から一九九五年冬にまたがるロシア滞在記録である。(「文庫版まえがき」p.7, l.1)

青土社で刊行の単行本が、文庫化したものです。
まだまだ不安定なロシア連邦政権下で、スターリン時代の英雄を友人達と偲ぶ著者。ソ連は本当に過去なのか、英雄は本当に死んだのか、なんだかよくわからなくなってくる。死ぬことでしか生を主張できない。生が誇張される程、死の匂いがする。魅惑の香り。

死が偏在する。五月に入ってから、タガンスカヤ、トヴェルスカヤ通りのナイトクラブ、ノーヴェリョームシキと三件の爆発事件があいつぎ、地下鉄での飛び込み自殺も後を絶たない。『夕刊モスクワ』には「地下鉄で自殺パレード続く」といった見出しまで出ている。プーシキンの「疫病(ペスト)のさなかの宴」ではないが、老いたる死者たちの華やぎに手向けられたデモクラシー———、それが今のロシアだ。相次ぐテロルと自殺に、自信を失い、行き場を無くしたロシア人の自閉ぶりがかいま見える。国家財産の簒奪という世にもおぞましい痴態にさらされ、差別と搾取に身を置きながら、人々が立ち上がれないのは、なぜなのか。コミュニストという呪わしいレッテルを恐れるためか。レッテルの恐怖にがんじがらめなのか、そもそも、パレードとデモの違いがわからないだけか。ロシアの若者たちもまた、ソ連崩壊後の世界に蔓延するイデオロギー差別の一変種に蝕まれている。不満を堂々と口にすることの恐怖———。デモはコミュニズムではない。国家崩壊後も、ロシア人の恐怖はなに一つ変わっていないということだ。(p.69, l.3-14)

終わりの方に、『青い脂』の著者ソローキンのことも書いてあります。
ポーランド、アウシュビッツへの道のりも少し。
巻末に人物リストもあるので、初心者も安心です。

2013年1月31日木曜日

岸本佐知子×クラフト・エヴィング商會



先輩が押しに押しまくる岸本佐知子さんのトークショーに行ってきました。
その先輩、「ガーリーな皆様へ」とかいう件名でイベント情報をメールで送ってくださる、素敵な村上春樹好き男子。一癖も二癖もある面白い先輩なのですが、性格の根暗さゆえ、その良さが人に伝わらない、いや、根明になったら先輩の良さが無くなるので、そのままがベストです。
先輩についてはまた別の話。わたしが参加したのは、

岸本佐知子×クラフト・エヴィング商會
『なんらかの事情』(筑摩書房)刊行記念「なんらかのタイプ、ねにもつ事情」

場所は下北沢のB&B。シモキタザ…ワ?
お恥ずかしながら、上陸したことのない街ですわ。しかも、つい先日買ったオサレ書店紹介にも紹介されていた激オサレなセレクト書店です。

なんと開始予定時刻30分以上前から、会場に登壇者3人が居る。控え室がないとなかんとか。
10分前から始まる「音出し」という名のフリートーク。ぬるりと本編になり(トークショーにそんなものがあるの?)次々と飛び出す愉快な話。

007の感想。
B&Bの運営体制。
三人の馴れ初め。
「すてき」嫌悪。
ネタメモの取り方。
文章の書き方。
きびしい(脳内)校閲係との二人三脚。
褒め合いキモイ。
夫婦の間柄も容赦なく割くBL漫画。
これからのこと。

会場は9割女性。私のお隣の席は、岸本佐知子ファンの女性。
最後にはサインもいただき、ちょっと参加者についてぐるぐる考えてみる。


あと気になったこと。
「モテ」って流行語なの?私が疎いだけなのかな?

2013年1月12日土曜日

L読書会について本気で考えてみた。

レズビアン、セクシャルマイノリティを題材とした小説、漫画の読書会を開催したい。
某SNSに書いたら予想以上にいいね!してくれる方がいたので本気で考えてみた。






■なんで読書会なのか
レズビアンの友達が欲しい、けどオフ会が怖い。何話したら良いのか分からない、という話を良く聞くので。
課題本って話題があったら話しやすいよなぁと考えた。
BBQとか飲み会やスポーツは良く聞くけど、こうゆう文系のまったりしたノンアルコールレズビアンイベントが身の回りに無いので。
私がそうゆう本を読みたいのと、本読んでいる人とお話ししたい。出会い系読書会!
(・x・ ).o0最終目標は、みんなでサッフォーの詩を古代ギリシャ語でよむこと。


■課題本候補
中山可穂『白い薔薇の淵まで』etc.
仁川高丸『微熱狼少女』
松浦理英子『ナチュラル・ウーマン』『奇貨』etc.
今野緒雪『マリア様がみてる』
ジャネット・ウィンターソン『オレンジだけが果物じゃない』etc.
ミシェル・ティー『ヴァレンシア・ストリート』
三浦しをん『秘密の花園』
朝倉かすみ『ほかに誰がいる』

(・x・ ).o0ほとんど読んだことないわ…

■参加条件
誰でも可。

(・x・ ).o0レズビアンに限定すべきか悩む。レズビアン限定SNSと、私の友人の範囲内で募集するつもりだけど。

■日時
土曜日か日曜日の昼15時ごろ
(・x・ ).o0私が土日休みなので…平日開催は無理なの…あと週末の午前中は寝たい。

■会場

都内のカフェ
(・x・ ).o0新宿のらんぶるとかで良いかな…お洒落なところ探さなきゃダメかな…。


どうだろうか。ご意見募集中です。

2012年12月31日月曜日

クリスマス2012


最近、読書会とか本屋イベントとかいろいろ行っているのですが、
クリスマススペシャルなイベントふたつが素晴らしかったので、記録しておきます。


■猫町倶楽部クリスマスパーティー
2012年12月23日15:00-
UNICE@代官山
課題本:森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』
対談:犬山紙子、峰なゆか
参加者:100名強(その後のクリスマスパーティーは200名近く参加)

HPも渋く、参加条件は課題本の読了と厳しいので、禁欲的な読書会だと思っていましたが、会場の雰囲気はまったり。ケーキとか出るし、ドリンクはジュースも選べるし。女性と20代が若干多めな印象ですが、満遍なく本好きが集まっているように思いました。
カフェは貸し切り。8人前後のテーブルに別れて自己紹介後、課題本について語りました。各テーブルにはファシリテーターという司会進行がいるので安心です。私のテーブルでは日本人作家の小説を良く読みますという方がほとんどでした。「ロシアや東欧の小説が好き」と言った私は空気読めない子だったかも…と反省。
「このヒロイン、友達居ないよね」
「どうってこと無いことをこんだけクドく書くから、最初読みづらかったけど、だんだん好きになった」
「森見登美彦って頭いいんですよねー」
「電気ブランって本当にあるお酒なんですか?」
「天狗とか言って不思議な雰囲気好きだなー」などなど。
同時に、各テーブル15分ずつぐらい犬山さんと峰さんがまわって、『夜は短し歩けよ乙女』についてお話ししました。

この課題本は峰さんが、近年まれに見るヒロインが気持ち悪い本として選定。村上春樹『1Q84』と迷ったとのこと。
「ずーっと日本の文学で描かれて来た理想の女って、詳しく書くと全部このタイプの女なんだよね」と峰さん。
「ヒロインの処女性をきわだたせる為に、絶対にかませ犬役の女がいる。いわゆるビッチ。そうゆう女には『ぽてぽて』とか『よちよち』とか『ちょこんと』とかいう擬態語を使わない。」とは犬山さん。
「主人公の男はさ、基本マグロで受け身なんだよね。可愛いけど。」
「春樹男子(村上春樹が好きな男子)って、夏目漱石が"I love you."を『月が綺麗ですね』って翻訳した話、異様に好きだよね。」
「BOOKOFFに行ったら絵本コーナーの『おおきな木』をチェックしてね!」

「読書会って、合コンじゃないって言い訳できる出会い系だよね」という犬山さんの評価は間違っていないと思いました。実際、そうだし。私も「読書会に参加する人」に会いたくて参加したんだし。
ぱっと見めちゃくちゃ美人で高圧的で話す内容もかなり毒気強いけれども、面白くってとっても優しいお2人でした。サインもらった!うれしい!当初の目的を完全に見失い、最終的にはただのファンになりました。

人数も多いし、課題本によって参加者だいぶ違うようなので、何回も行くと面白いかもと思える読書会でした。次はビジネス書の読書会行きたいなー。



■第24回 読んでいいとも!ガイブンの輪 年末特別企画「オレたち外文リーガーの自信の1球と来年の隠し球」
2012年12月25日19:00-
東京堂ホール@神保町
登壇者:豊崎由美×作品社、水声社、国書刊行会、白水社、早川書房、河出書房新社
参加者:80名

開始早々、登壇者は缶ビールを飲み始める。
自己紹介とイチオシ本と来年の隠し球紹介で時間いっぱいいっぱい。質疑応答無く終了。「此処じゃないどこか」を追い求めるのが好きな人たちで、かなり濃い話をきけました。
豊崎由美さんは、雑誌の対談・コラムなどで結構怖いイメージを持っていましたがそんなことありませんでした。言っていることは同じだけど、活字と全然雰囲気違いました。
外国語で書かれた作品を、日本語で読めることが自体が奇跡。本に関わる全ての人のことを考えて、パラパラとページをめくって2段組みなのかどうかを確認して、文字単価を計算してから買って欲しい。「やっすーい」と思って欲しい。2400円なんてタダみたいなもんだ。12000円の本だって、まぁ1200円ぐらいな気持ちよ。とのこと。
早川書房の山口さん、のりのりでした。
ジャネット・ウィンターソンが好き。だめな人が出てくる本が大好き。なんで真面目な人の話なんか聞かなきゃいけないんだ。ガイブンを読んでいれば、日本なんか天国だ。まだまだ自分はダメじゃないと思える。などなど。
噂の多い白水社の藤波さんですが、どうやらお酒の量が少なかったらしく、真面目な話ばかりでした。ロベルト・ボラーニョ『2666』、企画会議では26660円にしようか迷った、とのこと。
国書刊行会の樽本さんと、水声社の下平尾さんの「下には下がいる」発言は面白かったです。ガイブン以上に売れない本がある。映画本だ。映画本よりも売れないのが音楽本。その下に、戯曲や演劇本があって、詩集はもっとも売れない。というか、まず社内の企画会議に通らない。などなど。
作品者の青木さんが、「社内に営業部がないので、全国の書店営業もしながら編集もしてます」と言う話を聞いた会場の反応。…もしかして参加者みんな出版関係者なんじゃないかなっ!
河出書房の島田さんは、「復刊は、下手な新刊なんかより、確実に売れる。」とおっしゃっていました。ふむふむ。
最後は、豊崎さんから献本ダブり等を詰め込んだ福袋1個をめぐってじゃんけん大会。全員プレゼントに、twitterでも騒がれている、各社の来年のおすすめ本リストもらいました。

編集者の皆さんの情熱にあてられて、のぼせました。
話に出てくる知らない作家や知らない本をメモってゆくのも精一杯なかんじですが、未知なものから逃げたらおしまいよっ!と思って、次回も行ってみようと思います。

2012年11月25日日曜日

朗読、ポエトリーリーディングなど

11月10日、上野公園水上音楽堂で開かれた、読書のフェスに、準備スタッフとして参加してきました。
準備は各所へのチラシ配りと、渋谷ヒカリエの8階でチケット売り。

こうゆうイベントってどうやって開催しているの?と思いつつ主催者様の様子を見ていました。
あと、ヒカリエ8階って不思議な空間ですね。
いや、多くのサービスをインターネット上で享受できるからこそ、ヒカリエ8階のような人と人を結びつける「仕事」が発生するのかな。

チラシ配りは上野周辺の書店をまわって、わりと面白かったです。
お店によって対応って全然違うのね…


当日の感想。
所々、チケット売りのお仕事もあったので、全部は聞けていないのですが、
会社の先輩絶賛の菅原敏さん。すごい!ステキ!これぞポエトリーリーディングなのか?(まだ本質を良くわかっていない。)詩集買わなきゃね!また聞きたい。受付までホットワインを持ってきてくださって、とても気さくで温かい方でした。
川上未映子さんが、こんな情熱的な方だとは思わなかった。初期の詩は最高だよ、とまた別の先輩に勧められる。
三遊亭白鳥さん。何を隠そう、大本命。2年前、深夜のテレビで見た白鳥さんの新作落語が面白くて面白くて、この世界(なんの世界だ?声に出す系文学)に興味をもったのです。それに普通の落語なんて人気高すぎてチケット買えないし…。大いに笑わせていただいました。声も出したし、とてもこのイベントの趣旨に沿っていたと思います。寿限無覚えなきゃっ!
柴田元幸先生。安定の面白さ。最高。

そしてステキなスタッフの方々。イベント好きから、書店員さん、雑誌編集者まで、
本が大好きな方々で、次回読書のフェスの演者などを勝手に妄想。ふふふ。
「穂村弘さんにキュンとしない女子は居ません!」などの名言もたくさん聞けました。あー楽しかった。


日本の文学は、黙読用に作られているから、朗読は無理だよ。といったのはどの作家だったかな?学校教育が始まって、黙読が定着してしまった、とかも何処かに書いてあったような気がする。
自分の書く論文は、一度声に出して読んでみなきゃだめですからね、と言ったのはロシア文学の貝澤哉先生。

自分の部屋で声に出して本読んでも平気かな。偉人伝ぐらい、声に出して読みたいのだけど…

2010年8月23日月曜日

『フェルディドゥルケ』


2010,08,23 (Mon)
『フェルディドゥルケ』
W. ゴンブローヴィッチ 米川和夫訳 平凡社

もう1年程前に初めて読んだ本なのですが、
あぁ、感想が書けない、まだしっかり理解で来ていない。
と思い、繰り返し読んでいました。
やっとメモを取る程の感想が出てきたので、記します。


主人公は、30歳にして、17歳と偽り、学校の6年級に入学させられる。
未熟さを賞賛する主人公に下された、大人達による、再教育である。
10代の少年達と学校で過ごし、下宿先の家庭では、現代的な女学生と一緒に暮らす。
大人の望む若さを受け入れる学生、
大人の望む若さに真っ向から反発する学生、
大人達の考えには目もくれない学生。
そんな、若さに囲まれ、主人公は悩み、苦しむ。

初めはためらいがちだったが、しかし、一度、口火がきられると、あとはもう急調子で生徒一同、酔いどれの荷馬車引きでも恥じらうにちがいない、きたないうえにもきたない言葉のありったけを争って口にし始めたのだ。そしてお互いに猥雑な悪口雑言や下劣な言葉を熱っぽく人の目を盗むようにしてすばやく取りかわしたばかりか、何人かの者は、塀に白墨でもって、わざわざそうした言葉を幾何学的な図形に書き直して見せたりした。(中略)俺はみんなをとめようとした。
(中略)「なぜそんな下劣な言葉を?!」
「黙ってろ、洟ったれ!」思いきり下品なその悪童は俺にひと突きくらわしながら、こう答えた。(中略)「これはな、愛らしい臀部だなんて子供扱いされねえための、おれたちに残されている唯一の手段なんだ!見てみろ、視学のやつ、柏のかげから狙ってるぞーーーおれたちの一人前のけつをしょんべんくさいおちりにしちまおうと思ってな。分からねえのか?」
(p.49, l.9-p.50, l.6)

「足。」現代性にたいする俺の関心をかきたてようとするのだ。「足にきまっている。わしはおまえたちを知っているのだよ、おまえたちのスポーツ、新しいアメリカナイズされた世代の風俗習慣の事を。手よりも足のほうがいいのさ、おまえたちには足がなによりも大事なのさ。ふくらはぎ!精神文化なぞおまえたちにはなにものでもない。ただ足だ。スポーツ!ふくらはぎ、ふくらはぎ!」むやみやたらとおれの若さにこびようとする。「ふくらはぎ、ふくらはぎ、ふくらはぎ!」
(p.193, l.4-l.9)

成熟などというものを彼女を彼女は侮蔑していた。いや、彼女にとっては、未成熟が成熟にほかならなかった。顎ひげた、口ひげなど認められない、乳母にしろ母親にしろ子供をだいた女など認められないというわけでーーー彼女の魔術的な力の源泉がここにあった。彼女の青春はいかなる理想をも必要とはしないのだ。なぜなら、それ自身がすでに理想だったからだ。おれがーーー理想の青春によって悩まされ苦しめられているおれが、こうした理想の青春を燃えるように渇望したとしてもふしぎはなかろう。しかし、彼女はおれを求めなかった!おれの顔をつらにした!しかも、日ごと日ごとに、ますますもってすさまじくなる一方のたいそうなつらをおれにあつらえてくれたのだ。
(p.238, l.18-p.239, l.7)

この作品には、身体の一部が多く、象徴的に用いられている。
それは、男性器や女性器ではなく、尻、おちり、顔、つら、ふくらはぎ、足など。
本人も著作の中でこう語る。

肉体の基本的部分、飼い慣らされた従順なお尻が本書においては構成の基本となっていて、ほかでもない、つまり、このお尻から物語は始まるのだ。お尻というのは、木でいえば、畢竟、根もとのようなものであって、そこから個々の部分がさらにこまやかな根や枝の分かれとなって分かれてゆく。たとえば、足の指、手、目、歯、耳といった具合だが、そのさい、ある部分部分は、繊細にして精巧微妙な形態の推移のせいで、目にめとまらぬほど玄妙不可思議な変わりようを示す。そして、人間の顔ーーーある方言ではむちという人間の顔は、尻の根もとからもろもろの部分となって育っていった木のいただきを飾る葉の茂みだ。つまり、むちは尻によって始められた連関過程をとじる部分なのだ。そこで、今こうしてむちにまでどうやらたどり着いた以上、ふたたび尻にまで戻るためには、その間にある個々の部分の部品をまた逆にたどって行くほかない。
(p.126, l.17-p.127, l.7)

この作品の男と女の扱いは、『ポルノグラフィア』に比べて、驚く程、軽い。
男女と言う組み合わせは、まるでこの世の、主人公とは別の世の、理のように描かれている。
求めるのは、男同士の兄弟付き合い。
まるで、男女の付き合いから逃れるように、兄弟付き合いを求め、それは結局、失敗する。
この本は一冊まるまる、主人公の悩みと混乱で埋め尽くされている。

2010年2月25日木曜日

恋とか特別とか


時間に余裕ができ、保留していた問題がふわっと急浮上。

知り合いに恋人ができ、既婚者の知り合いが増えた。
ふたりです。ふたりが。ふたりで。一緒に。息子が。
二人暮らしで、ひとつのベッド。
あ、しまった、と思った。
私の知らない世界だ。

ごめんなさい。ごめんなさい、私、わからないんです。
結構本気で、わかりたいんです。でも、わからないんです。ごめんなさい。
そう思って、今日買った漫画。


志村貴子 『青い花 5巻』 太田出版
中村明日美子 『同級生』 茜新社
中村明日美子 『卒業生 冬』 茜新社
中村明日美子 『卒業生 春』 茜新社

百合だけど。BLだけど。フィクションだけど。ファンタジーだけど。
彼女らも彼らもわかっているのに、私は分からないのですね。
高校生も知っていることなのに。


私は焦っているのです。それです。
一般人よりも歩みが遅くて、これだ!と思って直進しても、結局遠回りなのです。
誤差を修正、なんてこと、してたまるか。
何とかして一般人に追いつきたい。
このままでいい。
このままじゃいや。
誰か助けて!
私は一人で歩いてゆけるよ!

私よ、なぜ漫画を買った!なぜ作り話を読んだ!
必要なものは本ではないと、気づいたはずなのに。
私はいつも、人の手を取ろうとしないのですね。

「私は恋をしたいんだ」なんて綺麗にまとめるのは癪だからまとめない。
私はなんて、子供なんだ!大人になりたい!
これは青春。私は青春。

2009年12月28日月曜日

『芋虫』


買ってしまった。


『芋虫』
原作:江戸川乱歩 漫画:丸尾末広 エンターブレイン(ビームコミックス) 2009

『パノラマ島奇譚』と同様に原作は読んでないのですが。
どうやらこれは禁忌らしいのです。変態だそうです。
なぜ?どこが?
夫婦でセックスして、夫が妻に欲情して、妻が夫に欲情することが?

純粋で、汗臭くて、必死で、
生きた人間と生きた人間のかかわり合いで、とても、良い夫婦だと思う。
泣きそうになった。
愛のある夫婦なんだと思った。

強烈すぎてうまく感想が書けないが、私はそう読んだ。

2009年7月16日木曜日

『陰陽師』


好きな作家は?と聞かれれば、夢枕獏と答えるし、
好きな音楽家は?と聞かれれば、源博雅と答える。
その程度には、『陰陽師』が好き。

一生に一度で良いから、源博雅の竜笛を聞きたい。
いや、逆か。死んだら聴けるのだろうか。
時々、源博雅の才能が主役の話がぽつぽつとあるのですが、それが大好き。
さぞかし美しい演奏なんだろうなと、妄想が止まらないのです。
もちろん、妖怪も好き。
安倍晴明の仕事っぷりもかっこいい。
そして仲良く、お酒を飲んでいる安倍晴明と源博雅も好き。

大きな課題も終わり、忙しい年末年始の前に、と思い買った本。

夢枕獏『陰陽師 夜光杯ノ巻』文春文庫 2009

はじめから、源博雅の音楽に惹かれた琴の精の話。
うれしい。うれしい。これはよい短編集。
しかし、何か、してやられた、という感じがするのだが。


「死ぬのか、おれたちは」
「ああ、死ぬ」
「おまえもか、おまえも死ぬのか、晴明---」
「死ぬ」
「おれも?」
「死ぬ」
「それは、いつなのだ」
「知りたいか、博雅---」
(中略)
「なあ、清明よ」
「なんだ、博雅」
「いつ、おれが、どのような死に方をするとしてもだ……」
「どうした」
「こうしておまえとこの世で出会うて、こうしてともに酒を飲んだ夜があったことを思えば---」
「思えば?」
「生きていたことの意味があったということさ。つまり……」
「つまり?」
「いずれ死ぬにしろ、それはそれで運命ということであろうよなあ」
「うむ」
「それでよい」
「うむ」
「この世に、おまえがいてよかったと、おれはしみじみと今、そう思っているのだよ、清明---」
「馬鹿……」
「馬鹿?」
「何故だ」
「おれの心にも準備というものがあるからだ---」
「ふうん」
博雅は、笑みを浮かべて清明を見た。
「どうした博雅」
「おまえにも、存外に可愛いところがあるのだな」
「おれをからかうな、博雅」
「からかってなどおらぬ」
「それよりも、笛を吹いてくれぬか。おまえの笛が聴きたくなった」 
「うむ」
(「食客下郎」p.264, l.8-p.266, l.15)

カロリー高すぎたかな。

『欲望する脳』


先月書いた、ちくまの本を読んで
今まで食わず嫌いしていた茂木健一郎の文章を読み再考。
新書を図書館で借りる。
茂木健一郎 『欲望する脳』 集英社(集英社新書) 2007


先入観はいかんなと思う。
でもメディアに露出する人が、
そんなことを心配していないと思うので全然大丈夫だと信じます。
はたして脳科学者と言う肩書きは、この本に必要なのでしょうか。

「多重文脈者」という言葉は誰が作ったのか分からないのですが、
近年の、妙な「自分らしさ」「本当の自分」「アイデンティティー」ブームを考えるにはよい用語だと思う。
今はもう廃れているのでしょうか。
個人主義は無関心とは違う、と言う言葉を、私はまだ理解出来ていないのです。

全ての会話や行為が、ネタや、笑いを取る為のじゃれ合いとなってしまう今、
2チャンネルやサイバー空間を真剣に語る事が避けられてるし、
バーチャルはバーチャルと、切り捨ててはいけないという思想も不十分だと思う。
インターネットで得られる情報は安易に信用してはいけないと、当然のように語られる横で、インターネット上の書き込みで脅迫罪と認定されている。

哲学は科学より先行しなければならないという主張は切実です。
資本主義社会での矩は、「己の欲望を満たすこと」。
哲学の介入の余地が、まだ、あるでしょうか。

2009年7月12日日曜日

『ほかに誰がいる』


なにか良いことが起こるような気がした木曜日。
志村貴子の『どうにかなる日々』を買おうと大学近くの書店に入るも、
在庫がなく、しょんぼり。うーん、と本棚の間をうろうろしながら目についた本を手に取る。

『ほかに誰がいる』 朝倉かすみ 幻冬舎(幻冬舎文庫) 2008

木曜日の夜と、金曜日の朝に読んでしまった。
ゆっくり読んだら、もう、主人公がいなくなってしまいそうなぐらいの疾走感。
主人公の物語がはじまる。
そして終わる。
そんな感じの恋のお話。

えりは一目惚れの相手を、心の中で「天鵞絨(びろうど)」と呼ぶ。
髪型も、眉の形も、肌の色も、天鵞絨と同じにして、
愛しいあのひとと同化したい、あのひとに吸収され、あのひとを吸収したいと願う。
あのひとの名前をノートに書く。
あのひとが触れたものを大事に取っておく。
16歳の恋は素敵。


「苦しければ苦しいほど、私の心は磨かれるのだと思った。
 私はそれだけ天鵞絨に奉仕し、天鵞絨のことだけを考えているのだから、それをわかってもらいたかった。わかってもらえなくてもいいのではないかな、とも思った。しかし、それは間違った考えだと私はすぐに反省する。天鵞絨は、天鵞絨のままでいい。」(p.26-27)

「好きということばは、天鵞絨のためだけのものだ。
天鵞絨以外のひとに対して、好きということばを、たとえ使わなくても、そう思っただけで、わたしはわたしを罰しなければならないのだった。
 子猫が空き地で昼寝をしていて、ミルクをのんだばかりとおぼしきお腹がふっくりふくらんでいたとしても、『かわいい』などと思ってはならない。わたしは心を動かしてはならない。天鵞絨以外の対象に愛情を注いではならないからだ。
 天鵞絨への忠誠は、いつか完全にひとつに重なるわたしたちの、『わたしたち』という人格を形成するのに欠かせないものだと思っている。
 『わたしたち』という人格を築いていくために必要なのは、おもに私の努力なのだ。
 わたしは信じていた。
 わたしの努力や、少しばかりの犠牲を天鵞絨に気取られてはならない。気づかれなければ、うまくいく、と。」(p.34-35)

えりは天鵞絨に近づくために、精一杯のことをした。
天鵞絨と関係あるもの全てと、結びつきたいと思った。
そうして天鵞絨と繋がる。
これは正しいと思う。
天鵞絨本人よりも、天鵞絨の好きなもの、天鵞絨の家族が大事。
突っ走る恋、突っ走る盲目。

若いな、素敵だな。
でも、憧れない。
いいな、いいな。
でも、したいとは思わない。

2009年6月13日土曜日

『女になりたがる男たち』


エリック・ゼムール著 夏目幸子訳
『女になりたがる男たち』新潮社(新潮新書) 2008

著者はパリの保守系『フィガロ』誌の記者。
パリでのフェミニズム運動が始まる前に生まれ、
女たちが伸し上がり、男らしい男たちの衰退を目の当たりにした著者の、
男性復権を主張する本である。
フェミニストが大嫌いで、
フェミニストに育てられた、女みたいな男も大嫌い。
俺達は誇り高き男だ。
男でなくして、存在し得ない。
男万歳。
女に負けるな。

父権崇拝者であり、男の仕事場と女を守りたい、
代表的な男とも言える著者の意見には、賛同しかねる部分も多くある。
しかし、現代のフェミニズムなのかなんだか分からないが、
こんなに男性、父権を持ち上げた本を見た事が無かった。
あるとしたら、昭和の女学生批判の本ぐらいだ。
女を批判の対象とし、男が生物学的雄として自信を持てと主張している。



そうだそうだ!
男と女は生まれながらにして敵なんだ。
どんなにセンチメンタルでロマンティックな言葉を並べたって、
物質的な違いは決して越えられない。
セックスはセックス、愛は愛。
愛のあるセックスなんて、存在し得ない。
セックスは物質的で、圧倒的に、現実。
愛は抽象的で、限りなく、フィクション。

NHKでも民放でも、「草食系男子」が話題になっている。所謂「恋愛に消極的な男の子」らしい。
それはフェミニズムの賜物。
女に逆らわず、女に優しく、女みたいにオシャレで、女みたいにシャイ。
それを男たちに強制したのは女たちで、
純粋で正直で本能的な男たちは、強い女の言う事には逆らわない。
でも女にとっては、言外の望みが一番大事だった。
女の性的欲求を満たすほどに、男の性的本能を守ること。

けれども、女は男の本能を削ぎ落とし過ぎた。
女に都合の良い本能すら捨てた男は、男ではない。
何と自分本位なこと。
肉体的女と、肉体的男を語ることを許さなかった女たちは、行過ぎた結果にがっかりし、肉体的男を責めるのだ。

私は、女に生まれた。
生まれた後に、女になるか、男になるかなんて、誰も変えられない。
私はフェミニズムは良く分からない。
関連書も読んだことが無い。
でも、たぶん、フェミニストとは仲良くなれないのだと思っている。
男頑張れ。
女はもっと頑張れ。

2009年6月1日月曜日

『高校生のための』


新しいんだけど、懐かしくて、買ってしまった。
この気持ちを表す言葉は、日本語にないのかしら。
筑摩書房の
『高校生のための現代思想ベーシック ちくま評論入門』 2009
『高校生のための現代思想エッセンス ちくま評論選』 2007


高校入学の時だったか、
父親が私に買い与えてくれた本が、以下の4冊。
『高校生のための小説案内』 1986
『高校生のための批評入門』 1987
『高校生のための文章読本』 1988
『日本古典読本』 1988

いずれも筑摩書房の単行本で、
特に『高校生のための』三部作は、やたらめったら評価が高い。
教科書のような、アンソロジーの形を取っていて、とても読みやすいのです。
が、内容はあまりに学校の教科書と懸け離れている。
こんなこと書いて良いの!
素晴らしい考えだ!
こんな人になりたい!と、
どの文章も私に影響を与え、思考させ、陶酔させ、悩ませた。
考えることを止めてはいけないと思う時には、
常に、この本の存在が脳裏に浮かぶのです。
2ページの文章を読んだだけで、
「私はこの人より賢くなれない」と思わせる文章の集まり。

私は愚かかもしれないけれど、ならば、もっと、他者から学び、自分自身で思考することを諦めてはいけない。
私は常に、過去の私以上で居たい。

2009年2月17日火曜日

『昭和美少年手帖』


いろいろと、
話題に上っている新撰組マンガ、
『風光る』 渡辺多恵子 小学館フラワーコミックス
を読み、思わず

『ランプの本 昭和美少年手帖』 中村圭子編 河出書房新社
を購入。


武士素敵。
武士になりたい。
自分のために死ぬ女子ではなくて、
心に決めたひとりの為に死ぬ武士になりたい。

美しい少年には価値があると認めていた、江戸時代の社会が素敵だと思うのです。
そう、少年は美しいのです。
声変わりして、髭の生え始めた男性は、美しくない。
女らしさを知った女が、美しくないのと同様に、
男らしさを知った男は、美しくない。

男と女の恋は畜生の恋。
男と男の恋こそひとの恋。

女に溺れることを恐れた、へたれ男子集団が作った屁理屈でも、
女を買うお金の無い貧乏浪人たちのひがみであっても、
それを師に教わり、教訓とし、
忍ぶ恋に眠れぬ夜を過ごした、真摯な武士達の精神は馬鹿にできません。


3年おきぐらいに来る武士ブームも、
今回はなんだか大幅に偏りを生じ、
他言できない方向へと進んでゆきそうです。

神や仏を、命を賭けて仕えるべき方と心に決め、
全てはその方のために。
シスターや尼さんが美しいのは、この迷いの無さなんでしょう。
あぁ、美しい人になりたい。

死に方を選ぶための生、そんな期間です。

2009年1月2日金曜日

『わたしは驢馬に乗って下着をうりにゆきたい』


二階堂奥歯の読書録から、
選んでみました。

『鴨居羊子コレクションⅠ 女は下着でつくられる』 国書刊行会 2004

日本で始めて色つきの下着をデザインし販売した、
チュニック創立者、社長、記者、随筆家、人形作家、デザイナー。
人生と言う物語とは、
こんなものなんだ!と、勇気がわく本でした。
開拓者です。

「当時、お風呂場でぬぎすてた上衣の中身には、何とタマネギのように何重もの下着がどっさりとくっついてきたことだろう。愛着すら残らない単なるメリヤスのシャツやメリヤスのシュミーズを、冬の長い年月を毎日毎日ゴロゴロと体にくっつけているのである。ついには、ゾーキンかボロ布のようにすら思えてきて、朝服を着るときも、夜服を脱ぐときも、それは人生の重荷を象徴するかのように、にぶいネズミ色で重かった。私は冬がいやだった。」 (「わたしは驢馬に乗って下着をうりにゆきたい」p.39-40)

「黒タイツにつつまれた私の脚は考えていた。実用的なことが同時に美しいというわけにはゆかんもんだろうか?毎日毎日働くこの体、この脚は毎日機能的で心地よく、そして美しくたのしくないといけない。ある日は、よそゆきのために、美しい薄着をし、ふだんはひどく腹のたつ、もたついた分厚いものを着ねばいけないということが気にくわない。『実用品』を名のっているメリヤス製品が、実ははなはだ着心地わるく、肩がこり、人生がいやになるシロモノすれば、これはほんとのイミの実用性とはいいがたいじゃないの、と私は思っていたが、多くの人々も無意識にしろそうだったと思う。」(p.41)

初売りの買い物は、下着に決定です。
今まで買った事のないような、かわいくて華やかなものを買おう!