ラベル 教育 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 教育 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2023年9月19日火曜日

「本当に好きなもの」や「個性」を見つけて伸ばすことについて

 小学生と中学生を子育て中の親御さんから、
「うちの子には、本当に好きなものが無いようだ」
「仲の良い友達の趣味と、合わせているだけのようだ」
という相談を受けました。
あまりに衝撃を受けたので、この1年ほど、このことを考えています。

ちょっとそのことについて整理して、
どうにかして親御さんに伝えたいな〜と思ったので、記しておきます。

確かに、最近の子育てのテーマは、
個性、主体性、自主性、好きなこと、自分で考える、
才能、強み、得意なこと、興味のあること、本当にやりたいこと......、などなど。
特別でオンリーワンの人間になることがとても重要視されているようです。

個人的には、
子供は、親や周囲の大人の行動をよく観察していて、
大人の真似をしたり、大人たちが強く反応してくれることをするので、
本当の個性や真にやりたいことなど、無い、と考えています。
というのも、多くの大人もそうだと思うからです。

読書会を10年間やってきて、ぼんやりと思っていることなのですが、
ほとんどの人は、心から大好きな小説を見つけるために、
未知のジャンルの本や、好きじゃないかもしれない作品を手に取るなどということはしません。
数少ない小説を読む大人の中でも、大部分の人が、
本屋大賞を取った作品の中から興味ある小説を選んで読んだり、
同僚や友人の間で話題になっているドラマを追いかけて見たり、
金曜ロードショーでやっている映画を見たり、
巨大な美術館でやっている展覧会を見に行ったりして、
それなりに楽しんで、しっかり満足して、次も同じようなことをするのです。
それは、とても充実した生活だと思います。

流行っている漫画を読んで、帰宅時間に放映してるドラマやスポーツ中継を見て、
行列ができているお店で人気のメニューを注文して、
感じの良い会社で働いて、
異性と恋愛して、異性と結婚して、子育てして、親のお世話もして、
多くの人は幸せに生きているのだと思います。

ヤマシタトモコ『違国日記』を読んで、改めて、
「何者かになれ!」という社会の圧力は強烈なのだな、と認識しました。
この作品の粗筋をざっくり説明すると……
両親が交通事故で亡くなるという
強烈な特徴を背負ってしまった中学生の田汲朝が、母の妹の高代槇生に引き取られます。
槇生は、命を削るようにして小説を書くという、個性が爆発している作家。
朝は、悲惨で特異な経験からユニークな人間になれるんじゃないかとか、
自分の本当にやりたいことを見つけられたら才能が開花するんじゃないかとか考えて
バンドを組んで見たり詩を書いてみたりしていますが、特に何も起こりません。
過去の経験と向き合ったり、今の自分の立ち位置を客観的に観察したりして、
しっくりくる自分の人生の物語を見つけようと、苦悩します。

他にも、魅力的な友人たちも登場するのですが、現時点の私が要約するとこんな感じです。

もしかして、「本当にやりたいことを見つける」がテーマの作品は多いのでしょうか。
失恋したり、会社をクビになったり、配偶者が亡くなったり、
異世界に転生したり、悪女の企てによって聖女の職を奪われたりして、
その先で、本当の自分を見つけて、幸せをつかむストーリー。

やっぱり、違和感があるのは、
誰にでも理解しやすかったり、誰かに共感してもらえたり、
過去と現在の辻褄が合っていたりする、
そういう人物像とライフヒストリーは、個性とは真逆のものだと思うのです。

それは、「自己ブランディング」です。広告です。商業活動です。
セミナー講師やTikToker、活動家など、
制作物やサービスではなくて、その人がその人であることを売っている方々が取り組むことです。
もしかしたら現代では、作家もまた、自己ブランディングが必要なのかもしれません。

リーヴ・ストロームクヴィスト『21世紀の恋愛』では、
恋愛までもが資本主義に取り組まれてしまい、
国家や社会が、より市場価値の高い恋愛をするように煽るので、
好きな人を商品のように選択できるようになってしまったことを、痛烈に批判しています。

今は、個性がいちばんの市場価値なのかもしれませんね。

 

(写真は、先日行った行列のできているアイス屋さんです。)

2020年5月29日金曜日

自分が本当に興味あることを見つけるのは難しい




もともと自分は、好きなものは好き
興味ないことは興味ないってはっきりしているので、
好きなのに全然うまくいかない、と悩むことはあまりないんだけど
植物に関してはだけは、長年悩んできた。

森が好きだ、湿地が好きだ、庭が好きだ。
動物や植物がたくさんあるところが好きなんだけど、
自分が育てるとなると、話が全然違う。

簡単に育てられるといわれている数々の植物を枯らしてきた。
逆にどうやって枯らせばいいの? と言われるような、
ミント、ローズマリーですら、瞬く間に枯らしてきた。

植物は、好きなはずなんだけど、
朝顔育てるのとか好きだったのに、なんでこんなことに……

3年ほど前、偶然にも植物を育てるのが非常にうまい友人に出会い、
会うたびに植物の話を聞いてきた。
植物の話っていうか、地球の生態系の話。


3年ぐらいお酒飲みながらお話聞いて学んだことは、
・そもそも植物は枯れるもの。枯れても気にしない。
・木だけ育てようとすると失敗しやすい。
 自然界では、菌や苔、虫、鳥によってバランスが取れている。
・植物がうまく育つ要因は様々。植物との良い距離感を探るべし。


確かに今まで、
完璧に育ててやる〜!ってかまいすぎたり、
すっかり忘れて3ヶ月ほど水やっていなかったり、随分極端だった。
「距離感」って一番難しいやつじゃん。子育て並みじゃん。

この3年間、
様々な花を買い、枯らし、を繰り返してきた結果、
わかったことは、自分は、本当は何が好きなのか?ということだった。
鉢植えを買ってきても、いまだに、だいたい失敗する。
でも、差し木したり、発芽させたりして育てていくのは、結構うまくいく。


そう、私は、後者の方が好きだった!!
花や植物の鑑賞への興味はあんまりなかった!!!
そうだったのか!

自分が本当に興味あることを見つけるのって、
特にその隣接領域が苦手な場合、時間かかる。

2019年2月11日月曜日

死刑と、ヘイトクライムについて

相模原障害者施設殺傷事件についての演劇を見て、
なんだか、すごく、暗い気分になっている。
酷い事件だ。そこは同意。
でも、日本で、法やヘイトクライムについての議論って
このレベルなの?っていうか。なんつうか。

あらすじは、以下のような感じ。
---------------------------------
死刑制度廃止を訴える人権派弁護士が、
相模原障害者施設殺傷事件の実行犯の国選弁護人となる。
被告人や、被告の両親、被害者の家族と面会するうちに、
弁護士は、被告人を憎み、被告人は死刑にすべきだ、と強く望むようになる。
死刑制度廃止の主張との矛盾を感じて悩むが、
自身の被告人への憎しみと、被告人の人権遵守の立場を切り離し、裁判へと望む。
---------------------------------

私が、主人公に感情移入できないポイントは2つある。

1、死刑制度は、
「国民は人を殺してはいけないけれども、司法は人を殺して良い」という
この社会システムの欠陥だ。命が尊いとかそういう話ではない。

2、日本であのようなヘイトクライムが起きたことについて、
私は、全然、驚いていない。



1、について。
人が、何が原因で犯罪を犯すかという普遍的なものが解明されない限り、
全ての人が、犯罪を犯す可能性があると思う。
善良な国民と死刑囚は、地続きだ。そこに断絶なんて、ない。


生まれ落ちた環境は、選べない。
生まれたときから選択肢が少ない人は多い。
犯罪者になるしかない人も居る。
そういう人たちに、「罰」を与えても意味が無い。
必要なのは、「社会のルール」と
「自分と社会の折り合いを付けて生きていく方法」を学ぶ場である。
現在、かろうじて前科の無い私も、上の二つは、義務教育で習っていない。
親からも、高校の先生からも、誰からも、教わっていない。

竹中功『よしもとで学んだ「笑い」を刑務所で話す』という本を読んだ。
軽犯罪を繰り返す受刑者のために、刑務所でコミュニケーションを教えるそうだ。
近所の人と挨拶をしよう、と。
「おはよう」と言い合える人には、「助けて」「お金貸して」って言いやすい。
もう、お金や食べ物を盗まなくて良くなるよ、ということを教えるらしい。

読んだときは、そこから!?と正直絶句した。
でも、すぐに納得するようになる。
会社を鬱病で退職する人、犯罪者になってしまった過去の同級生、
ハラスメントを繰り返す部長、モテたいとしか言わない非モテを拗らせた人、
なんだかみんな、下手なのだ。助けを求めるのが。
「だれも、自分を助けてくれない」と思うかもしれない、
でも、助けを求めるような人間関係を築く努力をしていないじゃないか!とも、思う。
そしてその方法は、誰も教えてくれない。

刑務所に入れた人しか、その教育を受けられないようでは、いけない。
今ぎりぎり、病気にならなくてすんでいる人、
犯罪者にならなくてすんでいる人を救う手段も、教育だ。
30代でも、70代でも、学べる環境を作らなければいけない。つよく、そう思う。



2、について、
もしかして多くの日本人がこの感覚なわけないよね?って思って、うんざりする。

ヘイトがあふれているのは、なにも、2ちゃんねるやTwitterだけじゃない。
会社で、飲み屋で、コンビニで、役所で、旅館で、いつだって目にするものだ。
この社会の行政システムに、この社会に蔓延している。

タクシーに乗れば、運転手が、
最近外国人多くて困っちゃうね、とまるで天気の話をするかのように言う。
旧姓で働く女性が、国際学会に出席するときに、毎回、パスポートの確認で手間取る。
30年近く日本に住んでいる人でも、見た目や名前が外国人風だと
「日本語うまいですね」と、本当に、どこでも、何度も何度も何度も言われる。
何人もの在日韓国人が、自分がそうだと言えずに、おびえている。
ホームレスの人が寒さに凍えているけれど、町の人は、見て見ぬふりをしている。

今まで多くの、在日韓国人が、障害者が、日雇い労働者が、女性が、同性愛者が、
ときにはくじけながらも、絶えず声を上げ続けてきたのに、
それにまったく気がつかずに、主人公は、今更、被告人のヘイトに驚くのか!!

おまえの目は、いままで、世界の何を見てきたんだ。
おまえの耳は、いままで、誰の声を聞いてきたんだ。
マイノリティーの声をかき消してきたのは、おまえじゃないか。
おまえみたいな奴が、この世界の大多数じゃないはずだ。

悔しい。こんな舞台が存在していることが、悔しい。

2018年9月10日月曜日

対話とは、多分私が経験したことのないもの。合コンみたいな。


差別に苦しんでいる人や、社会システムで不利益を被って怒っている人に
「冷静になれ。その方法じゃ誰にもあなたの悩みは伝わらないよ」とか言ったり、

結婚したくて、恋愛市場での自分の価値をあげるために頑張っている人に、
「そんな、他人に点数つけるような人たちがおかしいよ」とか言ったり、

自分がゲイだって絶対に、親にも友人にも職場の同僚にも言えないと悩んでいる人に
「そんなの悩む必要ないよ。何か資格とって都会で就職したら?」とか言ったり、

なんらかの理由で、十分な教育を受けられなかった人に、
「頭つかえよ。ニュース読みなよ。」とか言ったり、

周りの男性に30年以上馬鹿にされ続けて、すっかり内面化してしまった女性に、
「怒らないとだめだよ!ちゃんと上申しないと!」とか言ったり、

なんでそういうことが起こっちゃうんだろうと思ったけれども、
それって本当に、ただ、相手が見ている世界や環境を知らないだけなんだ。
自分が見えている世界と、全然違う世界があるということを、認知できていないだけなのかもしれない。

対話ってなんだろうと考えれば考えるほど、
「私は、対話を、したことなかった」と思うし、
対話が成立している状態はこうです、とは、説明できない。

対話とは、そういうことなんだ。
「ほんと、まじ意味不明」「なんでそんなこともできないのかな」って思うような人と、
フラットに話しつづけられるかってことなんだ。
「戦争と暴力を終わらす方法は、唯一、対話だ」とは、
私の大好きなアンジェイ・ワイダ監督の映画から学んだことだけど、
ただ、叫ぶだけではない。怒るだけではない。


なんで、私が、今、気付けたのかというと、
読書会というものを数年間主催していて、
そろそろ気づくべき時が来た、というのもあるが、
人生で初めて”合コン”に参加したというのが、会心の一撃だと思う。

私にとっての合コンは、
「私の知らないルールで、私には認知できないカードを、
男女が切った張ったやっている。
私には、自分の手持ちのカードすら、認知できない。
日本語を使ってはいるが、たぶん言葉の意味がまったく違うので、
ほぼ、お互いに言っていることの意味が、伝わっていない。」

そう、よくわからない領域の学会発表に来てしまった感じ。

それまでは、私は、冗談で
「私の周りには、自民党支持者は居ないんだけどな」とかすら言っていたのだが、
それが、自分と似た人とだけ関わってきた、という
「かなり深刻な状況」を表しているんだとは、正直、思ってもいなかった。

むしろ私は割と、異文化コミュニケーションを学び、海外出張とかもあり、
飲み屋のゴルフコンペとか異業種飲み会とかNPOとかで、
いろんな人に会ったり話したりしているつもりだった。
異文化っていうのは、そんなところにはなかった。
全く認知できないものだった……。


あと同時に思うこと。
女性の社会進出とか、多様性の尊重とか、民主主義とかって、
国際社会における日本の評価にも繋がるし、
実際それに困って苦しんだり自殺してしまう人もいるし、
この問題は、むしろ気づいていない人の方が深刻。

以上のことを考えると、
振り込め詐欺や客引き詐欺と同じように、
「学校が、下着の色を指定することはありません。すぐに児童相談所にご連絡ください」
とか
「育休申請を理由に、減給することは違法です。お近くの労基にご連絡ください」
とか
住宅地やオフィス街を巡りながらパトカーで広報するとか、
商店街で、15分に1回、注意喚起するアナウンスを流し続けるとか、
そうやって対処しなきゃいけない問題なんじゃないだろうか。


2018年7月31日火曜日

2020年 教育改革について、虚学を志す人の感想。

コミュニケーション能力とかいうものに長年悩まされてきた人間として、
一応読んでおこう、書いておこう。

教育改革についてはベネッセのページが、一番シンプル。
2020年 教育改革早わかり(ベネッセ)




中村高康『暴走する能力主義』ちくま新書、読んだ。
遡上にあがっている「能力」というものに
どういう特性や性質があるのかというのは置いといて、
(それがこの本のメインなので、なんか申し訳ないけれど……)

2020年の教育改革は、そもそもよく議論されていないって主張は、
まあ私は文科省の人間では無いので、本当にそうなのか確かめられませんが、
たしかに、「ゆとり教育」の何が良くて、何が悪かったのかという
冷静な振り返りは、ほとんど聞かない。
真面目な誰かが、独自でやっていると思うけれども。

だから今回の教育改革も、
過去にどんな失敗と成功があり、
今どんな問題があり、何を解決したくて、
「対話的で深い学び」とか「創造力」とか「学び続ける力」とかの
さまざまなキーワードを設定したのか、わからない。
なので、なんかぼんやりと理解したふりをしている。それは確か。

でも、学習指導要領って、ずっと、入試対策ではなかったよね。
きちんと、年齢相応の知識を教えようとしていたよね。
なのに現場が、受験一色になっちゃってまったく変わらないから、
「今回は最終手段!入試を変えま〜す!」ってことなんだと、理解している。


「能力」は計れないし、
それが何を示しているかも時代で変わってゆくから問題だって、言うのもわかるし、
そんなもんで評価されてたまるかって気持ちもわかる、
でも、そういうものに対応する力が教育の現場に求められるのではないのか?とも思う。
「コミュニケーション能力」が何を指し示すかは確かに不安定だけど、
一人の児童のほうがもっと不安定だぞ。


6歳〜18歳に何が必要なのかってことも考えたい。
アカデミズムは、変わらない。
たぶん、そんなに、大発見は立て続けにおこらない。
だから、アカデミズムのための規則や価値観を知るのは、本当に、何歳からでも遅くない。

でも一方で、多様性の受容や、寛容の精神を知るのは、若ければ若い方がいい。
若いときにしか理解できない小説や漫画もある。
大学に行かない人も、高校に行かない人も、理解しなきゃいけないことがある。

きちんと応援しよう。
そうすれば、いつか、きちんと反省できるはず。

2017年11月20日月曜日

性教育は民主主義の基本です。性教育をしっかりすれば、投票率も上がります、たぶん。

誰が、どれだけ、自分に近づいて良いかは、自分が決める。
安心できる環境は、自分で守る。
そして自分以外にも、全ての人にその権利がある。

これが、性教育の基本だと思っています。
先月ちょっとマレーシアに行ってきまして、
そこで、マレーシアで子育てしている日本の女性たちとお話しする機会がありました。
マレーシアでの教育で困っていることがあるかとお尋ねしたところ、
「性教育!」と間髪入れず答えが返ってきました。

詳しく事情を聞きますと、
日本語学習とか学費とかいろんなことを考慮して、
日本人学校とインターナショナルスクールを行き来する子が多いようなのですが、
一番違いが大きいのが、性教育だそうです。
インターナショナルスクールでは中学3年生で性行為の動画を見せる。
一方で、日本人学校は、
精子と卵子はわかったけどだからなんなんだ?と思うような、ぼやかした表現ばかり。
そのギャップを、家庭で埋めなければいけないが、
どう子供に伝えたらいいのかわからない、とのこと。

大事なことなのに、照れてしまってうまく言えない。
子供がちゃんと聞いてくれない。
というか、そもそも、
子供を性犯罪被害者・加害者にしないために何を伝えたらいいのか、
なんでよく知らない人とセックスしないほうがいいのか、
なんでパンツを売って稼いじゃいけないのか、
という答えを、持っていない。



実は、マレーシアに滞在中に、私が一番ショックを受けたのは、
女性ってこんなに弱かったっけ…
男性ってこんなに思いやりがなかったっけ…
ということでした。

ほとんどの男性は、
日本の女性は押しに弱いと、知っています。
そして、そのような態度で接してきます。
そこから自分を守る方法を、日本の女性は知りません。

ホームパーティ中、50代の男性が、ずっと20代の女性の手を握っていました。
気持ち悪くて、なんでその手を振りほどくことができないんだ、と女性に対して怒りを感じてしまったりもしました。
毎日毎日ハグや握手を求めてくる男性に「申し訳ないが、私は、そういうの得意じゃない」と断ったら「普通の日本の女性はすごくスキンシップが好きなのに!」と言われました。彼は、日本の人同士では握手もあまりしないことを知りませんでした。
日本の女性は、お酒を断る時も笑ったりして結局断りきれず、飲んでしまいます。
すごくすごく不愉快な冗談を何度も言われても、笑いながら「なんでそんなこと言うの?」と聞くだけで怒りません。

ある男性が、母国の保守的な地域では、
女性が結婚するときは処女でなければいけなくて、
病院の証明書を要求される場合もあるんだ、と話してたとき、
私は「新郎も童貞だって証明書が発行するべきだ」とか言ってみんなと笑っていました。
「女性だって自慰するし、スポーツで出血する子もいるよね。それはどうなるの?」と私が質問したとき、向かいにいた話を聞いていた男性たちが「いやいや、ちょっとお酒飲み過ぎですよ!彼女の発言気にしないで、変な子だから!」と私の質問を取り消しました。
この事件を、私はまだうまく処理できていません。
山の近くの出身の女性に「君の親は猿か」とからかったり、
初めて会った女性に「何歳ぐらいで結婚したいか」と聞いたり、
お酒好きな女性を大げさにからかったりするのは、日本の男性だけでした。




話が変わりますが、
LGBTについての研修などでお話していると、ときどき、
参加者から頓珍漢な質問が寄せられます。
「小学生とセックスしたい人たちの権利も守るべきだ」とか
「LGBTを生理的に受け付けられない人の権利を守るべきだ」とか。
多くの性犯罪でも、「合意」があったのか、なかったのかについて、
不可解で不愉快な判決がおりています。
自己決定とか、民主主義とか、
そういうベースの理念が共有されてないんだと、気づきました。


マレーシアで子育てしている女性たちには、
私が、バイブルのように大事にしている2つの本を紹介しました。

リヒテルズ直子著『オランダの共生教育 学校が<公共心>を育てる』平凡社 2010




ひとつめの本、主な話題は、いかにして個性を伸ばす教育を運営しているのか、歴史と理論の解説ですが、
かなりのページ数を、性教育とジェンダー教育の紹介にさいています。

オランダでは4歳から始まるという性教育。
以下は、最初の授業の様子です。

車座になった子どもたちの真ん中に、腕を通せるくらいの穴を開けた箱を置きます。箱の中には、スポンジ、柔らかい布、くしゃくしゃにした紙などが入れてあります、子どもたちは順番に穴から手を入れてみて、中のものに触り、どんな感じがするか、意見を言いあいます。それから、子どもたちが持ち寄ったお気に入りのぬいぐるみを見せあい、ぬいぐるみを抱きしめたときの感じ、お母さんに抱かれたときの感じなどについてワイワイガヤガヤ話をします。(p.138 l.7-11)

まずは、子供達が大好きな身体的な接触を、肯定すること。
そして、それは、人それぞれ違うということを、4歳の時から、しっかり言葉にして伝えてゆくんです。


デビ・ブラウン著『アスピーガールの心と体を守る性のルール』東洋館出版社 2017



ふたつめの本は、相手にNOと伝える方法、
なぜ彼氏以外とセックスしちゃいけないのか、
性被害にあってしまったらどうしたらいいのか、
ということがきちんと丁寧に書かれています。

自分の肉体の管理者は、自分である。
歯も、腎臓も、子宮も、膣も、全部自分の肉体なんです。
この考えをちゃんと持っていれば、
数ある内蔵の内のひとつについての説明が、
恥ずかしくてできない、ということが無くなるのではないか。

友達であれ、知らない人であれ、
突然、口に、他人の手を突っ込まれる衝撃は誰もが想像できるのに
性犯罪がこんなに軽んじられているのは、
性(性器)は自分の管理下には無いという思想が、流布しているからではないかと、
最近はそんなことを考えておるのです。

2017年4月3日月曜日

多様性の受容、寛容さを育む「人文の力」なるものがあるのか。

日本の教育は遅れていると、いろいろな場所でいろいろな職業の人から聞く。
じゃあ、今とは違う、新しい教育ってどんなものなのか。
そう思って勉強を始めて4ヶ月ぐらいが過ぎた。
おかげで、今、私は、
わりと最先端の教育を受けてきたのだ、と改めて認識している。
そしてその経験から、かなり強い危機感を持っている。
そのことをちょっとメモしておこう。


1、「専門は別分野だけど、教育に興味がある」おとなが参入してくる
2、教えるのが難しいけど一番重要な「多様性の受容」がたぶん遅れる



1、「専門は別分野だけど、教育に興味がある」おとなが参入してくる
21世紀型スキル、探究型学習、アクティブ・ラーニングなどで
新しい教育のあるべき姿として主張されているものは、
知識を得ることではなく、知識を得る方法を習得することだ。
学校を卒業しても、大人になっても勉強する習慣、というやつではないだろうか。

今まで、日本では家庭環境に任せっきりになっていたものだと思う。
そういう面では、私は恵まれた環境で育ったと思う。

家には百科事典があり、いつでも自由に手に取れる場所にあった。
小学生のときから、電子工作や、家具の設計や組み立て、
キャンプではテントの張り方や火のおこし方を教えてくれた。
太陽の直径のはかり方や、恐竜が絶滅した原因についての複数の仮説、
星座に現れるさまざまな神話、和算など、
学校の科目に捕らわれない学習を毎日のようにしていた。
クラシック音楽やオペラ、西洋絵画や映画を鑑賞するときの、
宗教の基礎知識も、もちろん、親が講義してくれた。

こんな環境で育てば、知らないことなんて怖くない。
新しい価値を学ぶことはいつも楽しい。
おかげで、私も兄も新しいものを学ぶことに全く抵抗がない。
こんな環境を、学校に作ろうということだ。

楽しいに決まってる。
クラスは一気に活気が満ち、
子どもたちの夢中な姿を見て、教師も満足するだろう。

しかし日本の公教育はなかなか変わらない。
その代わりに、教育系ベンチャーやNPOが盛り上がっている。
大学生や社会人が、プロボノみたいな名目でたくさん参加している。
でも彼らは、教師では無い。
教育学の知識がほとんどないこともある。
教育をドライに考えられない。教育を客観視できない。
自分の成功体験と情熱だけに支えられたそれは、結局、おとなの自己満足だ。


2、教えるのが難しいけど一番重要な「多様性の受容」がたぶん遅れる
中途半端に良い教育を受けた人たちには、ときどき、問題がある。
選民意識と、コミュニケーション不全。

理由はだいたいわかる。
こんな恵まれた環境にいる人は少ない。
教育熱心な親たちに、時間やお金を、たくさんかけてもらっている。
外からは「ちょっと変わった子」に見える。
自分を笑うおとなたちより、多くのことを知っているのに。

自分が恵まれた環境で育ったことに、無自覚なこともある。
どれだけ自分が安全な環境にいるのかわからない。
社会的弱者に、本人の努力が足りないから生きづらいのだと、平気で発言する。
自分と似た人に対しては同族意識を持ち、忠誠心も強くなる。
自民族中心主義に陥るのだ。

私が、それに苦しんできた。
それを打破できるのは、圧倒的な他者だ。
他者との共同作業、哲学や文学を通じて、自己を客観視する訓練が必要だ。

これを教えなければならない。
これは、決して、自分の経験だけでは教えられないものだ。
教育者としての認知的な知識が必要だ。

これを教えなければ。
ペットボトルロケット飛ばして笑っている場合じゃない。