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2018年7月31日火曜日

2020年 教育改革について、虚学を志す人の感想。

コミュニケーション能力とかいうものに長年悩まされてきた人間として、
一応読んでおこう、書いておこう。

教育改革についてはベネッセのページが、一番シンプル。
2020年 教育改革早わかり(ベネッセ)




中村高康『暴走する能力主義』ちくま新書、読んだ。
遡上にあがっている「能力」というものに
どういう特性や性質があるのかというのは置いといて、
(それがこの本のメインなので、なんか申し訳ないけれど……)

2020年の教育改革は、そもそもよく議論されていないって主張は、
まあ私は文科省の人間では無いので、本当にそうなのか確かめられませんが、
たしかに、「ゆとり教育」の何が良くて、何が悪かったのかという
冷静な振り返りは、ほとんど聞かない。
真面目な誰かが、独自でやっていると思うけれども。

だから今回の教育改革も、
過去にどんな失敗と成功があり、
今どんな問題があり、何を解決したくて、
「対話的で深い学び」とか「創造力」とか「学び続ける力」とかの
さまざまなキーワードを設定したのか、わからない。
なので、なんかぼんやりと理解したふりをしている。それは確か。

でも、学習指導要領って、ずっと、入試対策ではなかったよね。
きちんと、年齢相応の知識を教えようとしていたよね。
なのに現場が、受験一色になっちゃってまったく変わらないから、
「今回は最終手段!入試を変えま〜す!」ってことなんだと、理解している。


「能力」は計れないし、
それが何を示しているかも時代で変わってゆくから問題だって、言うのもわかるし、
そんなもんで評価されてたまるかって気持ちもわかる、
でも、そういうものに対応する力が教育の現場に求められるのではないのか?とも思う。
「コミュニケーション能力」が何を指し示すかは確かに不安定だけど、
一人の児童のほうがもっと不安定だぞ。


6歳〜18歳に何が必要なのかってことも考えたい。
アカデミズムは、変わらない。
たぶん、そんなに、大発見は立て続けにおこらない。
だから、アカデミズムのための規則や価値観を知るのは、本当に、何歳からでも遅くない。

でも一方で、多様性の受容や、寛容の精神を知るのは、若ければ若い方がいい。
若いときにしか理解できない小説や漫画もある。
大学に行かない人も、高校に行かない人も、理解しなきゃいけないことがある。

きちんと応援しよう。
そうすれば、いつか、きちんと反省できるはず。

2018年6月7日木曜日

差別や偏見は、私の中に、確かにある。

先日、早稲田大学スチューデントダイバーシティセンター主催のヒューマンライブラリーに、
「本」として参加してきました。
開催概要はこちら。
https://www.waseda.jp/inst/icc/news/2018/03/05/8210/

「学校の課題で、ネットで調べてきたんですけれど、思っていたのと全然違いました!」
「ゲイは知り合いにいるけれど、レズビアンの方にはじめて会います!」
と言う、初々しい参加者に会えてよかった。
こういった、きちんとした場で、好奇心を肯定するのも必要だと改めて思った。
何よりも、私が、自分の31年間をうまく整理することができた。
次回もあったら参加したいな。
いくつか思ったことを。

1、ネットでは「何が大事か」が伝わらない
2、自分の中の差別心を肯定すること
3、アイデンティティーに固執する大切さ



1、ネットでは「何が大事か」が伝わらない
当然だけど、ネット上に、すべての情報があるわけではない。
一人の人間が、ネット上にある膨大な情報から、
取捨選択して、そのほかよりも重要な情報にたどり着けることはほぼ無い。

青空文庫の中から、自力で、読みたい作品を探せる人は居ない。

そんなことをぼそっと言ったら、信頼している友人が、
「インターネットで一番伝わらないのは、スケールだ(大きさ/規模)」と言っていた。


2、自分の中の差別心を肯定すること
早稲田大学のヒューマンライブラリーの、告知文がとても気に入っている。

「あなたは『偏見』を持っていますか?」
「はい、持っています。」こう即答できる人は、どれくらいいるでしょうか。

私は、元世界銀行副総裁西水美恵子さんの、
自分自身の差別意識についての記事(時代の風 女性の社会進出)を、いつでも読めるようにしている。
マイノリティであることの一番の苦しみは、「自分の中の差別意識を認めること」だと思う。
誰よりもまず、自分が、自分を差別している。
「差別」と「偏見」は、あるんだ。どうやったって、完全には無くならない。
それを認めない限り、「差別」と「偏見」をなくす努力はできない。

このことについては、ずっともやもやと考えていたので別の機会にまとめる。


3、アイデンティティーに固執する大切さ
毎年、東京レインボープライドの規模は大きくなっている。
進んでいる企業やコミュニティーでは、
といっても、本当にそれが"進んでいる"ことなのかわからないけれども、
まあ、その一部の"進んでいる"企業では、
「マイノリティーであることは問題ではない」というメッセージを発することがある。

渦中にいる人にとって、その言葉は暴力だ、と思う。
そして、悩んできた過去の自分を、否定する言葉だ。
こんなことで苦しんでいるのは世界で自分だけだ、と思って、
友人にも家族にも相談できず、問題について冷静に考える時間も情報もない人たちに、
そしてかつての自分に、そんなことは言えない。

やっと手に入れたアイデンティティーに、しがみついて何が悪い。
そこが安全だと確認できるまで、何かをつかんだその手を、緩めることはできない。

私だって、こんなことで悩んだりしない10代に戻れるのであれば、
今すぐ、どんなにお金かけても、やり直したい。
でも私は、「高校と大学で、たくさん苦しんだことが、良いことだったんだ」と自分に言い聞かせるしか、できることはない。
ほかの人も、きっと、そう。

今回のイベントは、「ここは安全だ」と心から思えた。
運営スタッフの方々への、最大限の感謝と尊敬を込めて。

2017年4月3日月曜日

多様性の受容、寛容さを育む「人文の力」なるものがあるのか。

日本の教育は遅れていると、いろいろな場所でいろいろな職業の人から聞く。
じゃあ、今とは違う、新しい教育ってどんなものなのか。
そう思って勉強を始めて4ヶ月ぐらいが過ぎた。
おかげで、今、私は、
わりと最先端の教育を受けてきたのだ、と改めて認識している。
そしてその経験から、かなり強い危機感を持っている。
そのことをちょっとメモしておこう。


1、「専門は別分野だけど、教育に興味がある」おとなが参入してくる
2、教えるのが難しいけど一番重要な「多様性の受容」がたぶん遅れる



1、「専門は別分野だけど、教育に興味がある」おとなが参入してくる
21世紀型スキル、探究型学習、アクティブ・ラーニングなどで
新しい教育のあるべき姿として主張されているものは、
知識を得ることではなく、知識を得る方法を習得することだ。
学校を卒業しても、大人になっても勉強する習慣、というやつではないだろうか。

今まで、日本では家庭環境に任せっきりになっていたものだと思う。
そういう面では、私は恵まれた環境で育ったと思う。

家には百科事典があり、いつでも自由に手に取れる場所にあった。
小学生のときから、電子工作や、家具の設計や組み立て、
キャンプではテントの張り方や火のおこし方を教えてくれた。
太陽の直径のはかり方や、恐竜が絶滅した原因についての複数の仮説、
星座に現れるさまざまな神話、和算など、
学校の科目に捕らわれない学習を毎日のようにしていた。
クラシック音楽やオペラ、西洋絵画や映画を鑑賞するときの、
宗教の基礎知識も、もちろん、親が講義してくれた。

こんな環境で育てば、知らないことなんて怖くない。
新しい価値を学ぶことはいつも楽しい。
おかげで、私も兄も新しいものを学ぶことに全く抵抗がない。
こんな環境を、学校に作ろうということだ。

楽しいに決まってる。
クラスは一気に活気が満ち、
子どもたちの夢中な姿を見て、教師も満足するだろう。

しかし日本の公教育はなかなか変わらない。
その代わりに、教育系ベンチャーやNPOが盛り上がっている。
大学生や社会人が、プロボノみたいな名目でたくさん参加している。
でも彼らは、教師では無い。
教育学の知識がほとんどないこともある。
教育をドライに考えられない。教育を客観視できない。
自分の成功体験と情熱だけに支えられたそれは、結局、おとなの自己満足だ。


2、教えるのが難しいけど一番重要な「多様性の受容」がたぶん遅れる
中途半端に良い教育を受けた人たちには、ときどき、問題がある。
選民意識と、コミュニケーション不全。

理由はだいたいわかる。
こんな恵まれた環境にいる人は少ない。
教育熱心な親たちに、時間やお金を、たくさんかけてもらっている。
外からは「ちょっと変わった子」に見える。
自分を笑うおとなたちより、多くのことを知っているのに。

自分が恵まれた環境で育ったことに、無自覚なこともある。
どれだけ自分が安全な環境にいるのかわからない。
社会的弱者に、本人の努力が足りないから生きづらいのだと、平気で発言する。
自分と似た人に対しては同族意識を持ち、忠誠心も強くなる。
自民族中心主義に陥るのだ。

私が、それに苦しんできた。
それを打破できるのは、圧倒的な他者だ。
他者との共同作業、哲学や文学を通じて、自己を客観視する訓練が必要だ。

これを教えなければならない。
これは、決して、自分の経験だけでは教えられないものだ。
教育者としての認知的な知識が必要だ。

これを教えなければ。
ペットボトルロケット飛ばして笑っている場合じゃない。